2015年2月アーカイブ

佐高信『石原莞爾』

 石原莞爾の言行を洗いなおした書。

星亮一『会津落城』

 戊辰戦争時の会津攻防戦についてまとめた書。

青木理『抵抗の拠点から』

 『朝日新聞』バッシングとは何なのかについて、『朝日』関係者へのインタビューをもとに考察している。

竹信三恵子『ピケティ入門』

 著者なりの『21世紀の資本』の読み方を展開した本である。

坂脇秀治編『森の詩人』

 戦前に四尾連湖のほとりで独居した詩人・野澤一の詩と解説。

高橋修『熊谷直実』

 熊谷直実の生き方を実証的にあとづけた書。

日野行介『被災者支援政策の欺瞞』

 フクシマの被災者対策の柱として議員立法された「子ども・被災者生活支援支援法」が骨抜きにされる経緯と、放射性物質による汚染地帯へ住民を帰還させようとする政府の情報操作についてのルポ。

 城南信用金庫の理事長である著者が脱原発を熱く語った書。

 平壌郊外で暮らすよど号ハイジャックグループとの縁により、数回にわたって訪朝した著者の北朝鮮印象記。

鶴見良行 『マングローブの沼地で』

 ミンダナオ島西端からスルー諸島、カリマンタン島北端にかけての地誌。

 平安時代中ごろから江戸時代始めにかけての、武将を中心とした人物誌。

鶴見良行『アジアの歩きかた』

 著者が、学問の方法を語った書。

飯野頼治『武甲の里山を歩く』

 過日なくなられた著者による、おそらく最後の著作ではないかと思う。

 秩父市内から横瀬町内にかけての散策ガイドだが、たいへん詳細に書かれていて、本書を片手に歩いてみたくなる。

田辺寿夫『ビルマ』

 NHKでビルマ(軍事独裁政権が国の英語読みを「ミャンマー」と改称した)語番組に関わってきた著者による、1990年代なかばころのビルマと「日本」の状況を報告した本。

 戦中以来のビルマ史についても簡潔にまとめてあるので、わかりやすい。

中村尚司『人びとのアジア』

 経済学者の目から、アジアとどう向き合うかを、断片的なケーススタディを通して語った書。

鶴見良行『東南アジアを知る』

 『バナナと日本人』の著者による、学問の方法を述べた連続講義。

四方田犬彦『ソウルの風景』

 1979年当時と重ねあわせて見た、2000年ソウルの印象記。

上原善広『日本の路地を旅する』

 「日本」の被差別部落(著者は「路地」と呼ぶ」)の探訪記。

宮本常一『イザベラ・バードの旅』

 宮本常一氏による、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』ゼミナールの記録。

村井吉敬『エビと日本人2』

 同じ著者による『エビと日本人』(1988年)の全面改稿版。

 本書には、エビをめぐるこの20年の変化が追われている。

熊岡路矢『カンボジア最前線』

 機械修理技術を教えるNGOの活動を通して見た、ポル・ポト後のカンボジアルポ。

小川忠『インドネシア』

 外務省所管の特殊法人に所属してインドネシアと「日本」の交流事業を手がけている著者による、インドネシアルポ。

北朝鮮研究会『北朝鮮は、いま』

 韓国人研究者による、北朝鮮の政治・経済・文化に関する総合研究。

 一読すれば、政治・経済の両面で、破滅寸前の状態であることがわかる。

和田春樹『北朝鮮現代史』

 抗日戦争樹以来の北朝鮮の歴史を概観した書。

 北朝鮮指導部の内情や路線について事実に基づいて詳細に分析されており、わかりやすい。

文京洙『韓国現代史』

 戦後から廬武鉉(ノムヒョン)政権までの韓国政治・経済を概観した書。

上原善広『異邦人』

 カミュの小説の同じタイトルだが、世界数ヶ所における、マイノリティを訪ねたルポ集。

 ガザ・バクダッドは、どちらかと言えば、戦争の中の日常ルポである。

 1970代から1980年代にかけてのヒマラヤ登山は、「無酸素」とか「アルパインスタイル」とかに価値があるという風潮が強かったらしい。

 著者らもその流れに乗って、シシャパンマを三日で登るという計画に挑戦する。

坪井善明『ヴェトナム新時代』

 中国とともに、「社会主義市場経済」を指向するベトナムの現状を分析した書。

興梠一郎『中国激流』

 2000年代に入って、中国の社会・経済がどうなっているのかを紹介した本。

『証言 班目春樹』

 大震災当時、原子力安全委員長として事故対応の指導的立場にあった班目春樹氏のインタビューをお弟子さんが再構成した本。

 事故対応がまずかった責任は、自分にはなく、菅直人元首相や文部官僚・経済官僚・原子力安全委員会の自分以外の委員たちなどにあると主張している。

石橋克彦『大地動乱の時代』

 地質学の教えるところによれば、この列島を生み出したのは、地殻を覆うプレートによる造山活動である。

 従って、造山活動がなければ列島自体が存在せず、この列島は造山活動とともにあるというべきである。

椎名誠『活字たんけん隊』

 椎名氏の「活字」シリーズの4冊目。

 表題にも関わらず、サバイバル・探検本より雑学本が多い。

椎名誠『活字のサーカス』

 椎名誠氏の「活字」第一冊目。

 比較的早期の作品なので、「スーパーエッセイ」シリーズなどで爆発した軽妙な文体で書かれている。

今中哲二『低線量放射線被曝』

 福島第一原発が危機的状況に陥ったころ、枝野官房長官が「放射線濃度は直ちに健康に影響を及ぼすものではない」と繰り返していたことは、記憶に新しい。

 考える能力が少しあれば、「直ちに健康に影響を及ぼすものではない」とは、「将来のことは知りませんよ」と聞く程度のリテラシーは、誰でも持ってたと思う。

椎名誠『活字の海に寝ころんで』

 椎名氏の「活字」シリーズの3冊目。

 アウトドアと食べ物本が満載で、魅力的な本が膨大に紹介されている。

椎名誠『活字博物誌』

 椎名氏の「活字」シリーズの2冊目。

 取りあげられている分野は、アウトドア本や食べ物関係の本が多い。

加波山事件研究会『加波山事件』

 1954年に歴史を学ぶ学生たちによって集団執筆された加波山事件の復刻版である。

新井勝紘編著『自由民権と近代社会』

 自由民権運動は何だったのかを考える上で示唆に富む論集。

 編者が執筆されている第一論文「自由民権と近代社会」が、民権運動に関する総括的位置づけを行っている。

角田安正訳『帝国主義論』

 「新訳」シリーズの一巻。

 わかりやすい訳を心がけたと訳者が言うように、わかりやすい。

今野晴貴『ブラック企業』

 1990年代後半以来、「日本」の労働は、「自己責任」「仕事の細切れ・マニュアル化」「成果主義」へと流れていった。

秋山敬『武田信玄を歩く』

 山梨県・長野県内を中心とする、武田信玄関係の史跡ガイド。

 2011年6月以降、県民を対象に、福島県が行ってきた「県民健康管理調査」の意味や運用をめぐって、県や「専門家」たちがいかに不透明な動きをしてきたかをルポした書。

角田安正訳『国家と革命』

 「国家」についてのレーニンの考察。

 本書が書かれたのは1917年で、11月革命を前にした時期だったというから、ここでの理論的考察が、ことさら実践的な要請によるものだったことがうかがえる。

西山太吉『沖縄密約』

 『毎日新聞』の記者だった著者は、1972年に沖縄の施政権が「返還」された際に、佐藤政権とアメリカ政府との間でどのような交渉が行われていたのかを追っていた。

 キヤノン電子社長が経営を語った本。

曽野綾子『ある神話の背景』

 近い将来、渡嘉敷島を訪れる可能性があるので、この本を読んだ。

田中委左美『伝馬騒動と義民・兵内』

 増助郷に反対して明和元(1764)年に中山道周辺の村々の民衆が蜂起し、江戸への強訴を企てた広域一揆である伝馬騒動の指導者とされる武州児玉郡関村名主兵内を主人公にした、歴史小説。

忌野清志郎『瀕死の双六問屋』

 ミュージシャンである著者のエッセイ。

 初版(2000,7)のあとがきに、この本は自分で書いた、とあるので、ゴーストライターが書いたものではないと思う。

湯川洋司『変容する山村』

 民俗学的分析を通して、山村の主として精神世界が戦後に、どのように変貌してきたかを描いた書。

『物語朝鮮王国の滅亡』

 朝鮮王国(末期には大韓帝国)は1910年に、大日本帝国によって滅亡に追い込まれる。

 それが「日本」による「加害」の歴史だということは事実なのだが、朝鮮の歴史は、「加害と抵抗」だけではないことを叙述した本。

吉村昭『零式戦闘機』

 零式戦闘機の開発から製作・作戦での戦果とその終末までを描いた小説。

 ものづくりの魂とはどのようなものかについて、深く追究されている。

青木美智男『小林一茶』

 文化文政期・天保期の歴史の中に一茶を位置づけようとした書。

古守豊甫『長生きの研究』

 内容的には『短命化が始まった』と重なる部分が多い。

農文協文化部『短命化が始まった』

> 山梨県棡原村をフィールドとする、食生活と食意識の調査報告。

 たいへんな力作である。

白石太一郎『古墳とヤマト政権』

 古墳の分析から、日本列島における古代国家の形成について語った書。

岡恵介『視えざる森の暮らし』

 岩手県北上山地の安家地区における、江戸時代後半から現代に至るまでの、産業構造を明らかにした書。

 対象地区は『むらの生活誌』に近接する。

 宮沢賢治の作品が友人保阪嘉内を意識して書かれたことを『宮沢賢治の青春』が明らかにしたが、嘉内の生涯をたどった本は、本書だけのように思う。

菅原千恵子『宮沢賢治の青春』

 宮沢賢治の「ただ一人の友」だったとされる保阪嘉内との関係を、賢治の嘉内宛手紙と彼の作品から、鮮やかに描いた書。

 最終章である「第八章 『銀河鉄道の夜』は誰のために書かれたのか」を読むと、胸がいっぱいになる。

竹本修三『郷愁の秩父』

溝口睦子『アマテラスの誕生』

 記紀神話を分析することによって、古代ヤマト政権の性格を考察した書。

 神話を単なる「物語」と片づけるのではなく、その内的構造を読みとることにより、歴史の真実に迫ることができることが記されており、「目からウロコ」と感じる部分が少なくなかった。

吉川真司『飛鳥の都』

 天皇の代でいう、推古から文武にかけての、飛鳥一帯に権力が存在した時代の通史。

 『ヤマト王権』同様に、文献古代史の危うさを随所に感じながら読んだ。

広瀬和雄『前方後円墳の世界』

 考古学の研究成果から前方後円墳の時代を俯瞰した本。

 前方後円墳の時代とは、3世紀半ばから7世紀初頭までの約350年間である。

吉村武彦『ヤマト王権』

 ヤマト政権の成立から推古朝までを描いた通史。

石橋克彦編『原発を終わらせる』

 福島第一原発事故を受けて、原発をどう考え、原発廃止をどう考えるかについて、13人の研究者・技術者がコンパクトに語っている。

 前半はキリスト教の禁教の経緯、後半は民衆と寺社の関わりについての具体例を示した書だが、前半部分と後半部分とがどのような論理的脈絡でつながっているのか、よくわからなかった。

石川日出志『農耕社会の成立』

 考古学の知見によりながら、縄文時代から弥生時代への、列島における社会変容を描いた書。

細淵謙錠『極』

 白瀬矗の南極行を描いた小説。

 小説だが、明らかな創作とみられる部分はほとんどないから、著者は、ドキュメントに準ずる作品として執筆したのではないかと思われる。

西川恵与市『土佐のかつお一本釣り』

 明治から大正、昭和の戦後にかけて、「かつお一本釣り」という漁法がどのように変遷してきたか、あるいはこの漁法の勘どころは何かについての、当事者による記録。

斉藤利男『奥州藤原三代』

 「日本」の室町時代から戦国時代にかけて琉球王国が、事実上の独立国家だったわけだが、それに先立つ平安時代後半の平泉政権もまた、京都政権に従属する形をとりつつ、独自の支配権を持っていた。

上里隆史『海の王国・琉球』

 古琉球という国家のアウトラインを素描した書。

 国家や民族の概念の修正さえ、迫ってくる。

斉藤利男『平泉』

 1990年前後における最新の発掘調査に基づいて、平泉政権とは何だったのかを論じている。

三好京三『陸奥黄金街道』

 「金売り吉次」を描いた歴史小説。

 小説だから、荒唐無稽と思われる部分も多々あるが、平泉政権と陸海を結ぶ商人ネットワークとの関係が描かれている。

 チェルノブィリ原発の事故直後から骨髄移植手術に携わったアメリカ人医師の手記。

チェリー=ガラード『世界最悪の旅』

 スコットとアムンセンの南極点到達競争の話は、子ども向けの本で読んで知っていたし、アムンセンの『南極点』や、本多勝一氏の『アムンセンとスコット』に、コンパクトにまとめられているが、スコット隊の実像については、この本を読まなければわからない。

網野善彦『歴史と出会う』

 まとまったテーマで書かれたわけでない小文集なので、著者は「竈の灰の燃え残り」と述べられているが、部分部分に考えるヒントが詰まっている。

銭屋武平『大峰縁起』

 大峰山脈は、修験道の聖地である。

 修験道の理論はおおむね、密教に依存しており、密教の諸仏が修験の神々である。

 遺伝子を操作することができる社会が到来しつつある中で、今後、どのような問題が生起するのかを縦横に語った対談録。

石川徹也『日本の自然保護』

 「日本」の自然環境保護運動を概説した書。

 三内丸山遺跡の発掘によって、列島の縄文時代とはどういう時代だったのかを論じた対談録。

 対談者たちは、三内丸山とは、糸魚川から陸奥湾にかけての海上交易圏における、物流センター的な存在だったと述べられている。

 沖縄戦の実態がある程度明らかになっているにもかかわらず、「国を守るために戦う」といった言説があとを絶たない。

利根川裕『喜屋武マリーの青春』

 ロックシンガー喜屋武マリー(現Marie)の半生を描いた評伝。

 Marieの評伝というより、もと夫である喜屋武幸雄氏とMarieの評伝といってよい。

 政治家や「専門家」は、住民・国民をうまく騙しながら、「日本」を牛耳ってきた。

 「国民」はおおむね、騙され続けてきたのだが、致命的にひどい目にあわされたわけでなかったため、自分たちが騙されてきたと思わずにここまできた。

一ノ宮美成他『原発再稼働の深い闇』

 大飯三・四号機に続いて、他の原発も、再稼働に向けて動き始めた。

 この流れを作ったのが、民主党・野田政権と自民党・安倍政権だったことを記憶しておこう。

 フクイチの事故原因は、まだ特定されていないが、東電と政府は、「想定外の規模の津波が原因」説に収束させようとしている。

 もちろん、大津波が事故の一大要因だったことは、疑いない。

大田昌秀『沖縄 平和の礎』

> 著者の県知事在職中の講演集。

紙屋敦之『琉球と日本・中国』

 琉球史の第二段階・薩摩支配時代の琉球と「日本」および明・清との関係についてまとめた書。

 普天間飛行場の海上移転を巡るいきさつと諸問題についてまとめた書。

佐野眞一『遠い「山びこ」』

 『山びこ学校』の周辺を詳細に取材した書。

高良倉吉『琉球王国』

 わずか100余年前に解体された琉球王国は、500年以上の歴史を有する海洋国家だったが、「日本」の起こした戦争の際、天皇が支配する体制を数十日間延命させるために、10万人以上の民衆の生命とともに、史料のほぼすべてを灰燼に帰す被害を被った。

今井一『原発、いのち、日本人』

 原発の是非を問う国民投票実現のため、行動されている著者による、対話集。

 震災・原発事故当時首相だった菅直人氏の回想と現在の考えを述べた書。

 階級闘争史観は、基本的対立関係を基軸に据えて歴史・社会を見る。

 実存主義的歴史観では、自分にとって時代とはなんだったのかを基軸に歴史・社会を切り取る。

 例えば普天間基地が今、置かれている現状に、自分はどう関わろうとするのか、というふうに。

大城立裕『小説琉球処分(上下)』

 文化が不変でないのだから、民族というカテゴリーも不変でないだろう。

 明治初年の琉球の人々と「日本」人とが同じく「日本」民族に属するといっても、いわば別民族としての道を歩み始めつつある状態だっただろう。

小出裕章他『六ヶ所再処理工場』

 使用済み核燃料をどう処分するかという問題に対する、「日本」の方針は、「再処理」だった。

 「再処理」とは、使用済み核燃料から化学的にプルトニウムを分離する作業であり、これによって、プルトニウムを核燃料として再使用することが、理論的には可能となる。

坪井洋文『民俗再考』

 民俗学の視点から日本列島の多様性について論じた書。

 列島のある時期に、焼畑農耕文化と稲作農耕文化が接触し、結果的に国家を形成したのは稲作民だったが、非稲作民の精神構造まで征服できたわけではなかったと説く。

堀江邦夫『原発労働記』

 1970年代末に出版された本の修正復刊。

 美浜・福島第一・敦賀の三原発で働いた記録。

阿部謹也『逆光の中の中世』

 社会の発展法則なるものが、マルクスらの言うような形で存在するかどうかは疑わしいが、古代・中世と呼ばれる社会が、文明国家に共通して存在するのは、間違いなさそうだ。

七沢潔『原発事故を問う』

 チェルノブィリ原発事故の原因や影響について、関係者・当事者からかなり深く取材した書。

高木惣吉『太平洋海戦史』

 太平洋戦争における、海戦の略史。

吉村昭『戦艦武蔵』

 戦艦武蔵の建艦から沈没までを描いた小説。

 小説とはいえ、武蔵の建造日誌に取材しているので、着工から進水までの描写は圧巻である。

 マルクス・エンゲルスの伝記というと、手放しの礼賛本ではないかと、まずは警戒してかかる。

 本書にも、そのような部分がないとは言えないが、まずまず冷静な記述なので、不愉快にならずに読むことができる。

 著者のいう「犠牲のシステム」とは、「ある者の利益が他の者の生活の犠牲の上に成り立っている。その犠牲は通常隠されているが、顕在化したときには『貴い犠牲』として美化される」というものである。

 フクシマと沖縄は、そのシステムを象徴していると、著者は考えておられる。

菅谷昭『チェルノブィリ診療記』

 チェルノブィリ事故後のベラルーシで甲状腺ガンの治療にあたった医師の手記。

栗原俊雄『戦艦大和』

 進水から5年で沈没に至った戦艦大和とは何だったのかについて、主として聞き書きに依りながら、簡潔にまとめた書。

網野善彦・石井進『米・百姓・天皇』

 網野氏が長年取り組んでこられたのは、「日本」とは何かということだったと思われる。

 江戸時代に国学が取り組んだのも、そのようなテーマだった。

吉田満『戦艦大和ノ最期』

 著者は大和搭乗時、弱冠21歳、東大卒(繰り上げ卒業だから実質的には学生)の将校だった。

 日本海軍最大・最強の巨艦の中枢部で、副電測士として、刻々と展開する状況・戦況を整理して司令部に集約するという重責を担っていたわけだが、叩き上げの軍人よりも、情報処理能力はすぐれていたかもしれない。

小関智弘『粋な旋盤工』

 再読書。

 最初に読んだのは学生時代だったと思う。

薗田稔『神道の世界』

 神道とはどのような信仰かについての概説書。

小関智弘『春は鉄までが匂った』

 再読本。

 最初に読んだのは、学生時代だったから、鉄色の表紙の晩聲社版だった。

中村方子『ヒトとミミズの生活誌』

 世界におけるミミズの分布や生態について概説した本。

 津島家とは、津軽・金木の大地主で、太宰治や何人もの代議士を生んだ津島家である。

 歴代当主の周辺が丹念に取材されており、このドラマチックな一族が、よく理解できる。

 太宰の作品を理解する上で、参考になるのはもちろんである。

塩野米松『にっぽんの漁師』

 老若の各種漁師のみなさんからの聞き書き。

広河隆一『チェルノブイリ報告』

 事故後の東ヨーロッパ、なかでも高濃度の放射性物質によって汚染されたウクライナとベラルーシで何が起きたかを報告したルポ。

高木仁三郎『プルトニウムの恐怖』

 プルトニウムという元素が、現代社会においてどのような意味を持っているのかをわかりやすく解説した本。

田中三彦『原発はなぜ危険か』

 福島第一原発四号機の原子炉圧力容器の製造を担当した設計技師が、原発の技術的な問題点を解説した書。

 飯舘村は、野手上山・花塚山・佐須山のある村である。

 いくつもの小さな里山を持つ山里だが、傾斜は緩やかで、畑や田んぼもそこここに点在していた。

 晩秋には、枯れ木の根元にクリタケがよく出ていた。

広河隆一『福島 原発と人びと』

 3.11直後の福島の状況のルポ。

 雑穀食に関するシンポジウム記録。

 従って、問題を深く掘り下げた本ではない。

 高木仁三郎氏の自伝。

小出裕章・佐高信『原発と日本人』

 福島第一原発で起きた「事故」に伴う巨大な放射能汚染が犯罪でないわけがないと思っていた。

 今の段階で、刑事告発が行われてはいるが、裁判所が、理の通った判断を下すかどうかは、予断を許さない。

山秋真『原発をつくらせない人びと』

 山口県上関町に建設計画のある中国電力上関原発に反対してきた、同町祝島のルポ。

 上関原発の計画が明らかになってから30年、祝島では、一貫して建設反対運動が闘われてきた。

井上清『新版「尖閣」列島』

 いわゆる尖閣諸島の領有権をめぐる歴史学的考察。

 結論として著者は、尖閣諸島は中国領だと述べている。

小関智弘『おんなたちの町工場』

 著者のルポに出てくるのは金属加工の町工場が多いのだが、この本に出てくるのは、多様な業種の町工場・家内工場である。

本田宗一郎『私の手が語る』

 ホンダ創業者によるエッセイ。

 格言に満ちているわけではないが、もの作りに生きた人らしいいくつかの言葉が印象的だった。

小関智弘『ものづくりに生きる』

 主として町工場における金属加工現場のあれこれについて語り、部品加工がどれほど人間の手先に依存しているかを書いた本。

山下惣一『産地直想』

 佐賀県の専業農民である著者のエッセイ集。

小関智弘『鉄を削る』

 モノづくりとはどのような営為かについて、読んで快いほど明快に語った本。

中村靖彦『日記が語る日本の農村』

 長野県山形村で、1930年から本書執筆まで連綿と書き続けられてきた日記から、なにを読みとることができるかを、簡略にまとめた書。

 日記の筆者は、村会議員もつとめた村の名望家で、勤勉に働きつつ大きく営農されてきた人物である。

山下惣一『身土不二の探究』

 「身土不二」とは、肉体と大地は二つのものではないという意味である。

 人が、大地に依って生きているというのはあたりまえのことだが、資本の論理は、人と大地を引き剥がそうと作用する。

島村菜津『スローフードな日本!』

 『スローフードな人生!』の著者による、日本列島のスローフード紹介。

島村菜津『スローフードな人生!』

 自分が毎日食っているのはたぶん、スローフードだと思う。

井上ひさし『新釈遠野物語』

 新釈とあるが、遠野物語のパロディではなく、岩手県釜石周辺における、創作奇譚集である。

 正体不明の老人が、青年に奇想天外な物語を、あたかも事実であるかのように語ってみせるのだが、最後は、その老人が化けた狐だったという井上作品らしいオチがついている。

金丸弘美『田舎力』

 サブタイトルに「ヒト・夢・カネが集まる5つの法則」とあるので、農山漁村に来て儲け話を吹いているコンサルタントの本かと思い、「ちっ、失敗したか」と感じた。

 が、さいわい、コンサル的口調はやや気になるものの、そんな本ではなかった。

山下惣一『直売所だより』

 佐賀県の海沿いで水稲・みかんなどを作っている農業者によるエッセイ。

 天候や鳥獣の害はあきらめざるを得ないが、自動車産業や政治屋かウマイ汁を吸うことの代償に、農業がつぶされるというのは、あまりに理不尽である。

NHK取材班『朽ちていった命』

 1999年に茨城県東海村で起きた、臨界事故で致死量の放射線を被爆した大内久氏の、壮絶な治療記録。

島本慈子『戦争で死ぬ、ということ』

 太平洋戦争(大東亜戦争)における、「死」の諸相を概観した本。

松本善明『謀略』

 著者は、松川事件弁護団の一員だった弁護士である。

 考古学者・直良信夫氏の伝記。

 氏の伝記は、自伝の『学問への情熱』、第三者による『明石原人の発見』の二冊があるが、本書は家族(娘)による伝記であり、直良氏の身辺に関する記述がされていて、氏の学問がどのような人生の中から生み出されたのかをいきいきと描いている。

高橋徹『明石原人の発見』

 考古学者・直良信夫氏が存命中に書かれた氏の伝記。

 戦後の歴史上の事件をルポ風にふりかえった本。

 政治や経済の歴史でなく、ワイドショー的な意味での事件史でもなく、時代を象徴する事件の周辺を検証している。

佐藤栄佐久『福島原発の真実』

 福島県知事として、東京電力・国と対峙してきた著者による告発。

 著者が揮毫したあまり意味のなさそうな石碑を、あちこちで見た記憶がある。

斎藤成雄『秩父に革命の嵐吹く 』

 秩父事件の顛末を描いた小説。

堤隆『黒曜石3万年の旅』

 黒曜石製の石器に関する知見をわかりやすくまとめた書。

 旧石器時代・縄文時代の歴史に対するイメージが『旧石器時代の社会と文化』と比較しても、時代のイメージがたいへん鮮明になってくる好著だと思う。

湯川洋司『山の民俗誌』

 民俗学は、どのような生活や行事がかつて存在したかを記録する学問かと思っていた。

 力点はいかに詳細に記録するかにあるという印象があり、学としては、記録された内容の意味をほとんど問わないのかと思っていた。

 そんな見方は偏見であり、そういう浅はかな考えを持ったことは失策だったと思っている。

伊藤和明『地震と噴火の日本史』

 四つのプレートの境界線上に隆起しつつあるという立地条件の上に成立している日本列島にとって、地震(及び津波)と火山の噴火は避けることのできない運命である。

 有史以来列島の民は、これらの天変地異によって手ひどい痛手をこうむってきた。

村井米子『マタギ食伝』

 戦前から戦後にかけて各地の山を歩かれた著者による、山の食に関する記録。

 ことさら目新しい内容ではないが、山案内の人や職業的な猟師からの見聞や実験談なので、それだけリアルに感じる。

 3.11以降の日本列島で暮らすとはどういうことかについて、原発の専門家と放射線と健康に関する専門家がやさしく解説している。

山口耀久『八ヶ岳挽歌』

 『北八ッ彷徨』の著者による、1960年代から1970年代にかけての八ヶ岳の記録。

 八ヶ岳が観光「開発」にさらされ始めた前後の記録が含まれているので、八ヶ岳「挽歌」なのだろう。

山口耀久『北八ッ彷徨』

 1960年に初版が刊行された、山岳名著と言われる本。

 収録された山行記はおおむね1950年代のものである。

飯野頼治『両神山風土記』

 深田久弥の「日本百名山」には、今となっては名山の名に恥じる山も含まれているが、両神山は、文句なしの名山である。

 小鹿野町と両神村が合併したとき、町の名を「両神町」にしなかったのは迂闊だったと思う。

竹本修三『ぼくの戦後 回想の秩父』

 秩父で幼少期を送った著者による、敗戦から戦後すぐにかけての秩父市内がいきいきと描かれている。

 著者は秩父で生まれ、大学から京都に移られたようだが、自分と正反対の動きをされているのが、不思議だった。

堤未果『ルポ貧困大国アメリカ2』

 中山峠をはさんで、しらびそ小屋の反対側(諏訪側)にある黒百合ヒュッテ主人のエッセイ。

 この本にも、昭和20から30年代の北八ヶ岳一帯の森林伐採の状況が記されている。

工藤隆雄『花守記』

 ミドリ池の池畔に建つしらびそ小屋主人の半生記であり、しらびそ小屋の歴史でもある書。

広瀬隆『二酸化炭素温暖化説の崩壊』

 「化石燃料の燃焼に伴う二酸化炭素の温室効果により、地球が温暖化している」という通説を否定する書。

鎌田慧『こんな国はいらない』

> 西暦2000年以降の、主として人権に関する著者の評論集。

田中伸尚『ルポ良心と義務』

 学校における「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱が強制され、「歌わない」「起立しない」人々に対する迫害が始まってから、久しい。

 この年月の間に、強制を強制と思わない人が、すでに相当部分になっていると思われる。

金塚貞文訳『共産主義者宣言』

 かつて『共産党宣言』というタイトルで出版されていたパンフレットの新訳本。

 マルクスによって書かれたものの基本的精神を汲みあげようとして訳されたとある。

> 福島第一原発の事故は犯罪であり、その責任が追求されなければならないとする立場から、事故の構造的な必然性や、責任ある者たちの過去の言動の検証、原発のない状態の具体像について縦横に語っている。

 とくに広瀬氏の憤懣やるかたない情念が、ひしひしと伝わってくる。

さとうち藍『ふるさと野菜礼賛 』

 各地のいわゆる「伝統野菜」の周辺を取材したルポ。

 栽培農家や野菜そのものだけでなく、例えば豆腐屋のような加工業者や種苗店・地域の食材にこだわったレストランのように、伝統野菜が存続するうえで欠かせない人々からも取材している。

大田堯『証言』

 教育現場から教育学が存在しなくなって久しい。

 大学の教職課程には、教育とは何かを学ぶ「教育原理」や子どもの発達の論理を学ぶ「教育心理」という科目があって、そこで基本的なことを学んだ。

 かつて農林中金や全農の指導者であり、のちには有機農業運動の草分け的存在となった一楽照雄氏の語録のアンソロジー。

小川眞『キノコの教え』

> 生態学的な観点から見たきのこの役割について概説した書。

笹本正治『武田信玄』

 武田信玄の生涯と事績についての歴史学的な概説書。

 伝説的な部分の大きい信玄像を、より事実に即したものへと修正しようとする意図が感じられる。

今西憲之他『福島原発の真実』

 福島第一原発の現場幹部と筆者+週刊朝日取材スタッフのタッグによって書かれた事故の顛末記。

斎藤貴男『ルポ・改憲潮流』

 1990年代以降、改憲をめざす権力側の動きが本格化している現実に警鐘を鳴らす書。

筒井功『新・忘れられた日本人』

 サブタイトルに「辺界の人と土地」とある。

 一読すれば、「辺境」でなく「辺界」と表現した意味がよくわかる。

 秋山郷の木鉢製作だけでなく、秋山郷の暮らし全般についても記されているので、興味深い。

小松裕『真の文明は人を殺さず』

 田中正造の言葉が今、どういう意味を持っているかを考える本。

白石浩之『旧石器時代の社会と文化』

 旧石器時代とは、更新世(温暖化が進行する約16000年以前)における無土器文化をさすらしい。

中畦一誠『やまなみ 残照』

> 著者は下日野沢に生まれ、現に在住されている。

 地元の人が隣組的目線で見た、秩父事件である。

安田節子『自殺する種子』

 世界の食がどうなっており、「日本」の食はどのような方向に向かっているかをまとめた本。

 肉や牛乳に関する記述も多いが、まずは表題にある、農作物種子の現状について、しっかり読むべきだと思った。

稲垣栄洋『雑草の成功戦略』

 いわゆる雑草の生態についての、肩のこらないエッセイ集。

 民俗学や歴史学で、サンカを正面から取り上げた研究をあまり見ない。

 自分自身、サンカと呼ばれる人々が存在したらしいことを知ってはいたが、書店に並んでいる関連書籍をパラパラ見ても、どれだけ確実な研究なのか怪しい印象があって、読んでみようという気にならないでいた。

佐藤信『古代の地方官衙と社会』

 律令国家の地方支配の拠点であった国衙・郡衙がどのように役割を果たしていたのかを論じた書。

城山三郎『指揮官たちの特攻』

 特攻作戦の最初と最後を担った二人の同期生パイロットへの鎮魂歌的作品。

佐々木恵介『受領と地域社会』

 平安時代の地方行政のトップに位置づけられていた受領の実態を解説した書。

 受領とは、任地へ実際に赴任した国司のトップである。

中山高嶺『三峯、いのちの聖地』

 三峯神社の宮司さんが書いたエッセイ。

 神社本庁の役員などもされている方なので、本文の中には、「神ながらの道」とか、ちょっと近寄りがたい言辞も並んでいる。

桜井英治『破産者たちの中世』

 中世は、徳政令が出された時代だから、借金に苦しむ民衆を描いた本かと思ったが、土倉など室町時代の金融業者の実態を解説した本だった。

竹信三恵子『雇用劣化不況』

 1990年代以降、列島を覆いつつある新自由主義経済が雇用にどのような現実をもたらしたかをまとめたルポ。

高橋典幸『源頼朝』

 源頼朝は東国武士政権の創始者だが、歴史の授業では、頼朝の権力基盤について、きちんと説明されているとは言いがたい。

 伊豆で挙兵した頼朝の麾下へ東国武士たちがはせ参じたという言い方だと、東国武士政権が畿内政権から自立するに至る歴史の流れをつかむことができない。

 サラリーマンであれば誰しも、勤務先のコンプライアンス違反事例に遭遇する経験をしなければならないだろう。

 事例を何らかの形で問題にした場合、適切に処理される場合もあれば、そうでない場合もありうる。

石川拓治『国会議員村長』

 中越大地震で壊滅的な被害を被った山古志村で、避難と復興の陣頭指揮に当たった当時の村長(現在自民党衆議院議員)だった長島忠美氏の主として震災当時を取材したルポ。

本多勝一『石原慎太郎の人生』

 例によって雑文集なので、石原慎太郎に関する評論集といった書物ではないが、石原に関する雑文も、いくつか収録されている。

 「・・・の人生」というほど綿密に石原慎太郎を検証した本ではないのはわかるが、今少し詳しく書いてないと、書名に偽りなしといえなくもない。

三浦しをん『神去なあなあ日常』

 横浜の高校を卒業した青年が、三重県の林業会社に就職させられ、山仕事と地域の現実を理解していくという小説。

 よくよく考えれば非現実的な部分もあるのだが、山村の現実をよく取材した上で書かれているので、リアリティがある。

浪川健治『アイヌ民族の軌跡』

 アイヌ文化の成立は15世紀ごろという。

 この文化が分布していたのは、現在の北海道を中心とし、サハリン・千島・東北北部と、かなり広範囲にわたっていた。

早野透『田中角栄と「戦後」の精神』

 田中角栄の選挙区だった旧新潟三区の各自治体で、越山会がどのような人々によって、またどのような形で作られていったかを追ったルポ。

黒野伸一『限界集落株式会社』

> 自分が現在暮らしているのは、たぶん「限界集落」だと思う。

 ちゃんと住んでいる戸数も人口も、減っている。

 今後、賑やかになる気配は、ない。

 30歳前後の若い人々によって東京都檜原村で立ち上げられた林業会社・東京チェンソーズを、代表の青木氏の軌跡を中心に描いたルポ。

 青木氏には、仕事の関係で、チェンソーワークの実演を見せていただいたことがある。

本多勝一『非常事態のイラクを行く』

 雑多なテーマに関する文集という感じのこのシリーズにしては珍しく、「湾岸戦争」後のイラクにおける、劣化ウラン弾被害の実態を掘り下げて取材したルポ集。

奥田美穂『絵の記録』

 「教員赤化事件」で教壇を追われたのち、東京で社会教育に関する仕事をされたという著者の小説集。

 折り目正しく誠実に自己を見つめた、小説らしい小説で、たいへん読み応えがあった。

城山三郎『大義の末』

 「(天皇制という)大義に生きる」という確信のもとで人間形成してきた若者が、戦後、どのようにして思想的清算をとげたかを描いた作品。

川上徹『アカ』

 1933(昭和8)年2月に、長野県において権力によって起こされた「2・4事件」(もしくは「教員赤化事件)の関係者の当時とその後を追った掘り起こし記録。

増田昭子『雑穀を旅する』

 列島において一般的な雑穀は、キビ・アワ・ヒエの三種類だろう。

 これら以外にソバ・タカキビなども古くから作られているが、ソバはあまりにもメジャーだし、タカキビは、どこでも栽培されていたわけではなさそうだ。

 三種類の中で、キビは後発の穀物なのか、『古事記』や『日本書紀』の「五穀」に入っていない。

吉村昭『赤い人』

 樺戸集治監の成立から廃止までを描いたドラマである。

 作者が吉村昭氏なので、作品は、よほど綿密な取材に裏打ちされているだろう。

 西暦2000年前後に書かれたと思われる雑文集。

 テーマがない本なので、タイトルと内容にはほとんど関係がない。

 著者のこのシリーズはこういうものと了解して読んでいるので違和感はないが、不親切な本ではある。

 秩父事件のあとを時系列でたどった紀行文。

 いきなりで申し訳ないが、読むだけ時間の無駄というほかない。

五味文彦『日本の中世を歩く』

 ずっと以前には、在地の史料が少ない中世は、今ひとつ掴みどころのない時代という偏見を持っていた。

 歴史のバックボーンは社会構成史だと思っていた時代には、中世史を学ぶ意義についてさえ、疑問を持ったことがあった。

 しかし実のところ、中世は、人々が生き生きと生活していた、じつに魅力ある時代である。

佐伯弘次『対馬と海峡の中世史』

 「どこからどこまでがウチの国のものなのに、勝手に立ち入るとはケシカラン」

 「それに対し憤懣に耐えぬようなものは『日本』人の資格はないから出てけ」

というような笑うべき言説が横行している。

河田宏『民乱の時代』

 秩父事件と甲午農民戦争の両方を体験した人物がいたという想定で書かれた歴史小説。

 二つの民衆蜂起の間には、10年の間隔があるが、共通する部分も大きいと思われる。

上野敏彦『千年を耕す』

 宮崎県椎葉村で焼畑を営んでいる人々を取材したルポ。

『子供だったころ』

 新潟県安塚村立中川小学校の1950年卒業生一同が2005年に書いた、敗戦直後の食・暮らし・遊びの記録。

斉藤洋一『身分差別社会の現実』

 列島における賤民身分に関する研究の到達点をわかりやすく解説した書。

 本書のテーマは賤民身分の起源や実態についてだが、身分制度そのものについての記述も参考になる。

保阪正康『田中角栄の昭和』

 田中角栄の評伝。新書版ながら400ページ近い大著である。

 多くの文献を渉猟されており、田中政治について、鋭い分析がされている。

『帰ろう山古志へ』

 新潟県山古志村の人々による、中越地震体験記集。

 同村は、子どもの時に読んだ『鯉のいる村』の舞台になった村である。

 自民党の政治家数名と田中の秘書による、田中角栄回想談。

 田中角栄礼賛本の一つであるが、政治家たちにとって、田中がどう映っていたかを知ることができる。

須田治『地性の人々』

 農業や山仕事に、主として信州で携わっている人々を取材したルポ。

 とりあげられている方々は、地元に根ざして暮らしておられる方も、脱サラとか新規就農された方も含まれる。

松本市立博物館編『鰤のきた道』

 内陸に、美味しい海産物の産地がある場合がある。

 近江の鯖、甲州のアワビ、信州の寒天など。

 本書を読むと、飛騨のブリというのも、その一つらしい。

新潟日報社『入門田中角栄』

 田中角栄の語録と略伝。

岸宣仁『職場砂漠』

 労働の疎外について、マルクスが、透徹した見方を示した当時、イギリスの労働者は確かに、人間でありながら人間でない暮らしを強いられていた。

 「日本」人が自分の責任を棚上げして「悪いのは私じゃない」と他罰を言い募るようになったと主張する書。

 精神科医がそのように言うのだから、おそらくそうなんだと思われる。

 田原総一朗氏が進行役となり、佐藤優氏と宮台真司氏が語る鼎談記録。

 鼎談といっても、佐藤氏と宮台氏が直接議論をかわす場面はほとんどなく、鼎談の体をなしてはいない。

宇江敏勝『山河微笑』

 著者の他の本は、何かのテーマがあるが、この本は、紀州中辺路町野中での、著者の日常を淡々と綴ったエッセイ集である。

 その意味では、一読することによって新たに開眼するということもさほどなく、淡々と読み終えた。

斎藤たま『わらの民俗誌』

 わらの民俗に関する聞き書き。

市川健夫他『地域を照らす伝統作物』

 伝統作物とは、各作物における、それぞれの地域独特の品種のことである。

山本素石『つりかげ』

 ヘミングウェイの釣り小説は、急いで読むのが惜しいほどテンポがよく、無駄がなく、誇張や釣り自慢もない。

 井伏鱒二は高名な作家で、釣り小説を多くものしているが、釣り作家ではない。

田中史生『越境の古代史』

 「倭の五王」の時代から平安時代後期にかけての東アジアにおけるネットワークについて、通史的に述べた書。

 教科書史観が切り捨てる東アジア関係史の目新しさに唖然とする。

『山本勘助』

 「山本勘助と彼の周辺に関するあれこれをまとめた書。

銭谷武平『役行者ものがたり』

 子ども向けに書かれたと思われる、役の行者伝。

北島万次『秀吉の朝鮮侵略』

 文禄・慶長の役(朝鮮側でいう壬辰倭乱)に関する概説。

 この戦争については、藤木久志『日本の歴史15 織田・豊臣政権』(小学館 1975)に、要点がまとめられていたと記憶する。

 本書は、朝鮮側の史料を駆使して、主として戦闘の経過をやや詳細にまとめている。

宇江敏勝『森とわたしの歳月』

 著者が戦後、家族や仲間と共に炭焼きや林業労働に携わってきたかつての現場を、回想とともに訪ねて回った際のエッセイ。

 読んでいると、薄暗く演出された博物館で、戦後まもない頃の林業労働の現場に関するよくできた展示を見ているようだ。

 律令制時代のヤマト国家の対外関係における基本的姿勢を簡略にまとめた書。

 律令制時代以前からヤマト国家が中国との冊封関係に消極的だった事実は意外だったが、認識を新たにすることができた。

中村修也『平安京の暮らしと行政』

 平安京における行政の実相を記した書。

 史料的制約があるから、もちろん、平安京における暮らしをあらゆる面から詳細に描いているわけではない。

阿波根昌鴻『命こそ宝』

 沖縄県伊江島で反戦・反基地を闘ってこられた著者の語りの第二弾である。

 前著『米軍と農民』は、おおむね、沖縄の本土復帰前までの苦しい闘いが内容だったが、この本は、復帰後の状況について、語られている。

鹿野政直『健康観にみる近代』

 近現代の日本で、「健康」がどのように位置づけられてきたかを検証した本。

 著者は、近代史を教えていただいた先生の一人なので、一年間の講義を受けているような感覚で読んでしまう。

銭谷武平『役行者伝の謎』

 数多ある役の行者の伝記・伝説類を博捜し、役の行者の実像に迫ろうとした書。

 とはいえ、行者伝の中で信頼に足りそうなのは、『続日本紀』にある、彼が伊豆に流刑となったという記事だけである。

新崎盛暉『現代日本と沖縄』

 明治維新から現在に至る沖縄略史。

 特に新たに論点があるとは思えなかったが、沖縄「返還」以降の基地依存経済構造の形成については、認識を新たにすることができた。

外間守善『私の沖縄戦記』

 業務で那覇に行ったおり、見つけた本。
 外間先生には、大学で、言語学を教えていただいた。

小澤浩『民衆宗教と国家神道』

 幕末期に、はかりしれないポテンシャルを持つ、いくつかの宗教が誕生した。

 如来教・黒住教・金光教・天理教・大本教・丸山教などである。

 ポテンシャルとは、人間のあるべき姿を追求し、社会のあるべき姿を真正面から追求するパワーを意味する。

麓慎一『近代日本とアイヌ社会』

 北海道旧土人保護法成立に至る政策的流れを整理した本。

 官僚や政治家の中には、アイヌからの土地の収奪を憂慮し、アイヌの日本人化をソフトランディングさせようとした人々が存在した人がわかる。

藤原良章『中世のみちと都市』

 中世の道と橋に関する概論。

 とくに、橋について詳しい。

吉田ゆり子『兵と農の分離』

 兵農分離は、近世史を理解する上での前提条件であり、近世国家・社会は兵農分離によって形成されたと言ってもよい。

 自分の理解は、1950年代に書かれた著名な論文の域を出ていないのだが、基本的には、幕藩制国家の成立と前後して、土豪層は下級武士か草分け百姓のいずれかの道を歩むことになり、一方で彼らに従属していた人々は、時間をかけて小農として自立していったというものだった。

飯沢匡『乞食円空』



 円空が無学で無思想な凡僧だったと主張する本。

 ほとんどすべての行に、著者の思い込み・無知・無理解が溢れかえっていて、じつに辟易する。

 当然だが、読むことをお勧めしない。

寺崎保広『藤原京の形成』

 藤原京は、ヤマト国家最初の本格的京都である。

 位置的には、奈良盆地の南に偏しているが、権力内部のヘゲモニーを握った蘇我氏の基盤に近いところから、ここが選ばれたのだろう。

 京域に大和三山を含んでおり、風光は明媚だったと思われる。

梅原猛『歓喜する円空』

 円空の生涯を、作品・史料に即して描いた評伝。

 円空が「まつばり子」(私子)で、幼い時に母を亡くしたという口碑を事実とする前提で、それをキーとして円空の生涯を解いている。

舘野和己『古代都市平城京の世界』

 ヤマト国家成立後二番目に建設された都市である平城京は、どのような町だったのか、どのような人々が住み、どのように暮らしていたのかをわかりやすく説いた本。

小出裕章『原発はいらない』

 小出氏の、福島第一原発の事故に関連する発言集。

熊谷公男『蝦夷の地と古代国家』

 古代ヤマト国家成立期における、東北地方との関係について詳論した書。

 ずいぶん以前に、『蝦夷・アテルイの戦い』という本を読んだが、その本の一部にある荒唐無稽な言説に、ちょっと辟易した。

今村啓爾『縄文の豊かさと限界』

 列島文化の基層が形成されたと思われる、縄文時代の全体像についての概説。

 たいへん興味深いが、東西南北に地政学的条件の多様な日本列島において、一般論的な論断が不可能だという、著者の留保を念頭に入れて読む必要がある。

岡本東三『古代寺院の成立と展開』

 列島における仏教の濫觴期についての概説。

 基本的に「記紀」の記述に沿って、古代仏教史を捉えている。

福島金治『北条時宗と安達泰盛』

 東国武士政権=鎌倉幕府は、源頼朝死後ずっと、内紛続きだった。

 前代未聞のモンゴル侵入に見舞われた執権北条時宗の時代も、同様だった。

山本英二『慶安の触書は出されたか』

 ほとんどの歴史の教科書に出てくる、いわゆる「慶安の触書」と題された禁令の周辺に関する論考。

 この禁令が、多くの参考書や史料集に掲載されており、大学入試にも出題されている史料なだけに、これが実在しなかったことを実証した本書は、興味深い。

高橋慎一朗『武家の古都、鎌倉』

 『中世都市鎌倉を歩く』の類書だが、切り口が同じでないので、こちらも一読の価値はあった。

千々和到『石碑と石塔の祈り』

 関東地方で山を歩いていると、至るところで見る板碑についての概説書。

 やはり類書がないので、助かる本である。

篠原賢『大王と地方豪族』

 「倭の五王」の時代から「乙巳の変(大化改新)」の時代にかけての、大王と地方豪族の関係がどのように展開してきたかをあとづけた書。

末木文美士『中世の神と仏』

 主として鎌倉時代から室町時代にかけて、神仏習合の理論がどのように変遷してきたかをあとづけた書。

 支配者・民衆の信仰実態については、ほとんど書かれていない。

松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く』

 主として鎌倉時代から戦国時代までの鎌倉の歴史。

 この本を読むと、鎌倉に行ってみたくなる。

村井章介『境界をまたぐ人びと』

 境界は、人為的に作られるものだから、なくすこともできる。バリケードがない境界は、存在しないと同じである。

 本書でとりあげられているのは、列島各地に存在した「日本」と外部との境界を行き来した人びとである。

五味文彦『中世社会と現代』

 中世という時代の魅力は、民衆が自分の人生を生き生きと生きている点にあると思う。

 いつの時代にも、民衆は生き生きと生きていたのだろうが、中世の史料からは、支配され管理されるだけでない、民衆の姿を、垣間見ることができる。

 もちろん、たとえば近世と比べて、中世の方がリスキーで残酷な時代だったことは、事実だと思う。

 現在の「日本」のエネルギーの一定部分が原発によって作られていることは、事実である。

 原発から撤退するためには、エネルギー消費を減らさなければならない。

白石太一郎『古墳とその時代』

 列島の古墳を総合的に研究することによって、古墳時代の列島の権力構造に迫ろうとする書。

 列島といっても、東北地方北部に古墳は存在しないから、古墳時代という語が有効なのは、九州・四国と東北北部を除いた本州である。

 さらりと書かれた日本民俗学史。

 別の読書ノートにも書いたが、学生時代に、民俗学の講座を受講しなかったのは全くの失策だったと思う。

前沢和之『古代東国の石碑』

 森浩一氏は、列島に叢生した古代の地域文化を、文献資料によるバイアスのかかった眼で読むのではなく、その自立性に注目し、地域文化の論理から文献資料に内在する作為を解きほぐす方法を提起しておられる。

 地域文化を読む際の手がかりになるのが、考古資料である。

 近世の村人たちの家族や人生がどのようなものだったのかを概説した本。
 これも類書が少ないので、助かる本である。

小出裕章『原発のウソ』

 本書は今、ベストセラーなんだそうである。
 著者はその現実を「ちっともうれしくない」と述べられている。

水本邦彦『草山の語る近世』

 主として近世の村における採草地の意味についての概説書。
 同様の書が見当たらないので、ありがたい本である。

長崎肇『原水協で何がおこったか』

 1984年、原水爆禁止世界大会の分裂とともに、日本原水協が、日本共産党の介入によって分裂した。
 運動に携わってきた人々にとっては、痛恨のできごとだったと想像する。

 この事件には余波があった。

 1946年4月に映画監督の伊丹万作が書いた、「戦争責任者の問題」という、この上なく鋭い考察を紹介するとともに、その後60年近くを経た「日本」人がどれだけ変わっただろうかということをテーマとする対談録。

森浩一『地域学のすすめ』

 史料の少ない古代史において、「日本史」から自由であることはむずかしい。
 作為に満ち満ちた歴史の虚偽を砕くのは、モノに依拠して書かれた歴史以外にはないだろう。

井出孫六『信州奇人考』

 書名には「奇人考」とあるが、奇人の伝記ではなく、前半は、信州の特産物をめぐる人物群像、後半は、歴史の主舞台から少し離れたところを歩いた信州人物誌である。

森浩一『山野河海の列島史』

 日本史というコトバの嘘っぽさが見えすぎてきたので、最近は列島史というコトバを使うようにしている。
 このコトバは自分の感覚に比較的フィットしている感じで使っている。

鴨川達夫『武田信玄と勝頼』

 信玄・勝頼文書の検討を通して、彼らの実像を書き換えると述べている書。
 本の帯には、「文書を徹底的に読みこみ、通説を根本から洗い直す」とある。

新潟日報報道部『原発を拒んだ町』

 自分の町に原発が来るということがどういうことか、日本人は十分理解しただろうか。
 原発を誘致すれば莫大なカネが国や電力会社から落ちてくるのはなぜか、わかっただろうか。

江口義春『故郷の灯は消えて』

 徳山村の暮らしや動植物について、縷々記した本。
 民俗関係だけでなく、移転に伴うできごとや補償交渉をめぐるあれこれについても記されている。

森浩一・網野善彦『日本史への挑戦』

 サブタイトルに『「関東学」の創造をめざして』とある。
 「日本史」という学問分野を否定する書といってよいと思う。

笹本正治『戦国時代の諏訪信仰』

 東日本に広汎に広がる諏訪神社信仰がどのようなものだったのか、戦国時代を中心に考察している。

 タイトルにあるとおり、信玄の古戦場を訪ねる、歴史紀行。
 研究書ではない。

『村上義清と信濃村上氏』

 坂城町で行われた、村上氏フォーラムの記録。
 村上氏は、室町時代から戦国時代にかけて、信州北東部を支配していた武将で、武田信玄と数度にわたって戦い、うち二度勝利したといわれている。

小泉武夫『発酵は力なり』

 たいへん多くの著書を持つ醸造学・発酵学者による、発酵食についての概説。
 発酵食についての啓蒙書でもあるらしく、文章にめりはりがないのが気になりはしたが、内容はとても面白い。

 日本列島の生活文化に関する、考古学者と中世史研究者の対話。
 この列島の民が、どのように動いてどのように暮らしてきたのかを、ダイナミックに語っている。

箕川恒男『村は沈まなかった』

 着工されなかった茨城県緒川ダムの顛末を記した書。

筆坂秀世『日本共産党』

 ちょっとした件で党を離党した著者が、日本共産党の実態とあるべき姿について述べた書。

小阪修平『思想としての全共闘世代』

 全共闘世代(いわゆる団塊の世代と重なる)が、この半世紀の間にどのような思想的体験を経てきたかを分析した本。

小林貞作『ゴマの来た道』

 アフリカのサバンナで発生した(現在はインド原産という説もあるらしい)ゴマが、どのように変異しながら世界各地へ広がっていったのかを概説した本。

川上徹『査問』

 (革命)組織と個人の関係に関する衝撃的な事実が書かれている本。

青砥恭編著『「学校崩壊」を斬る』

 学校という世界は、普通の人には理解できない一種独特の論理で動いているのだろうと思う。
 この世界を構成しているのは、とりあえず生徒と教師である。

 フランスあたりで、学生・高校生が、学費や年金問題など、さまざまなテーマで行動を起こすニュースをしばしば目にする。

江森陽弘『ダムに沈んだ村』

 ダム建設が決まった徳山村がどうなったのかを、増山たづ子さんの視点から描いた本。
 後半は、増山さんの半生記である。

久保田展弘『役行者と修験道』

 修験道の歴史についてのかなり詳しい解釈書。
 わかりやすい本だが、修験道を教義と捉える見方への疑問が強くなっているので、随所に違和感を感じながら読んだ。

姜尚中『悩む力』

夏目漱石とマックス・ウェーバーを例に、とことん悩むことの意味を説いた書。

加太こうじ『関東侠客列伝』

 幕末から近現代にかけて、侠客と呼ばれた人々の実像やその周辺に関する蘊蓄の詰まった書。
 『アウトローの近代史』と比較すると、内容の重厚さを強く感じる。

野田正彰『させられる教育』

 「日の丸」「君が代」の強制が、教師の心性と教育にどのような悪影響を及ぼしているかを、精神医学の見地を含めて論じている。

光永覚道『千日回峰行』

 千日回峰行とは、比叡山における修行の一つで、百日連続して、決められたコースを礼拝するという修行を都合1000回行うというものである。

田中彰『岩倉使節団』

 廃藩置県によって幕藩体制に終止符を打った直後の1871年、岩倉具視以下の明治政府の指導者たちは欧米視察に出かけた。
 帰国はバラバラだが、基本的には1873年である。

飯島裕一『疲労とつきあう』

 常時、疲労とつきあっている。
 どうにかして疲労から逃れたいものだが、人生とはそのようなものだと考えるしかないのかもしれない。

高田宏『日本海繁盛記』

 江戸時代から明治にかけて、日本海で活躍した北前船の略史。
 この著者の文章は実に読みやすい。

吉村昭『史実を歩く』

 中村政則氏が、ご講演のなかで紹介されていた本。

五味文彦『源義経』

 源義経の実像を探った本。史書なので、史料から義経がどのように生きたかをあとづけている。

山下恒夫『大黒屋光太夫』

 天明2(1782)年に遭難してから寛政5(1793)年まで、ロシアに保護されて、帰国後、貴重な滞露体験者となった船頭・光太夫の記録。

江宮隆之『山本勘助とは何者か』

 信玄が、というより戦国大名が面白い理由の一つは、ユニークな軍略スタッフが存在する点だろう。
 武田信玄のスタッフだった山本勘助もその一人である。

松本一男『張学良』

 張学良の伝記小説。

野口正士『石碑が語る秩父事件』

 秩父事件関係の石碑・墓石を調べた記録。

船木上総『凍る体』

 低体温症のメカニズムについて詳しく解説した書。

辺見庸・佐高信『絶望という抵抗』

 骨太な二人の論客による対談。

 『21世紀の資本』のサマリーを平易に説いたブックレット。

佐高信『西郷隆盛伝説』

 西郷隆盛の周辺から見た明治維新。
 研究書ではなく、歴史ノンフィクションである。

吉村昭『海も暮れきる』

 尾崎放哉の死にざまを描いた小説。
 かつて読んだことがあるのだが、読書ノートを作っていなかったので、再読した。

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