水本邦彦『草山の語る近世』

 主として近世の村における採草地の意味についての概説書。
 同様の書が見当たらないので、ありがたい本である。

 農作業に肥料は欠かせないのだが、江戸時代後期以前まで、列島では主として、厩肥や刈敷など、雑草・小枝などに由来する肥料を使ってきた。
 人糞尿その他の金肥が広範に使われるようになるまで、肥料は自給しなければならなかったはずだ。
 本書によって、自給草木の採取法や使われ方が、よくわかった。

 江戸時代前半は、農業生産力が大きく拡大した時期である。
 草木自給を基本とする江戸時代以前のやり方では、広大な採草地を必要とする。
 耕地が拡大すれば採草地も拡大しなければならないから、江戸時代半ばごろの村の周囲には、原野が広がっていたはずだ。
 村の周囲に雑木林があれば、そこは採草地同様に、激しく利用されてきただろう。

 かくて、春の火入れに伴う野火や山論が激発することになった。
 人の出入りの激しい里山に、害獣がはびこる余地は少なかっただろうし、杣道・仕事道はしっかり踏まれていただろうし、土壌表層に養分が少ないから、きのこはよく出ただろう。

 生の草木を田畑に入れることも行われたらしい。
 生の小枝を田植え前の田んぼに入れて、馬に踏ませている図版がある。
 刈敷とは、刈った草を厩に敷き、牛馬に踏ませ発酵させたものと理解していたが、本来の意味は、生のまま田畑にすきこんだものをいうらしい。

 農書類にも、刈敷の効用が記されていて、『清良記』にはかじって味のよいものが肥効もよいとあり、『農業全書』も、草の陽気が盛んな時期に刈ったものは、作物の陽気を助けるとあるという。

 実際のところ、梅雨時における田畑の雑草の獰猛さは甚だしいもので、刈り草置き場に困るからやむなく、土中に埋めているのだが、宮崎安貞先生に土壌がよくなる旨の太鼓判を押してもらうと、いささか楽しみにもなってくる。

 江戸自体中期以降、採草地の拡大によって山が荒れ、治水の必要を感じた公儀が、水源の乱伐・乱開発を厳禁したことによって、肥料の絶対量が不足した。
 西日本を中心に金肥が一般化したのは、このような背景による。

 経済史的には、至極納得できるのだが、そのような流れが、果たしてよかったのかどうか。
 再生可能な資源である海の鰯を畑にまくのだから、持続不可能な農業というわけではない。
 しかし、持ち出した要素を再び土壌に入れて利用するというのが、究極の理想だとすれば、江戸時代以前の列島の農作業は、かなりそれに近いものがあったことを考えれば、農行為のめざすものは、それまでとはかなり異質だということも事実である。

 近世初期まで、人にとっても村にとっても、究極の価値は「持続」だったと思うが、「発展」を志向するようになったのは、すでに農行為の変質だといえないこともないと思う。

(ISBN4-634-54520-9 C1321 P800E 2003,7 山川出版社 2011,7,4 読了)

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