笹本正治『戦国時代の諏訪信仰』

 東日本に広汎に広がる諏訪神社信仰がどのようなものだったのか、戦国時代を中心に考察している。

 諏訪信仰の原型は、守屋山をはじめ、諏訪湖をめぐる山々への水源信仰だったらしい。

 諏訪湖はまた、名だたる暴れ川である天竜川の水源でもあるから、信州・遠州一帯の人々にとって、治水の意味も含まれていただろう。

 古事記では、国を奪われたオオクニヌシの子であるタテミナカタノミコトが、ヤマト政権のタテミカヅチノミコトに抵抗したが敗北して逃げ来たったのが諏訪湖だった、という筋書きになっている。
 このあたりは、信濃の豪族が、ヤマトの豪族に圧伏された事実をシンボライズした話なのかもしれない。

 著者によれば、諏訪信仰は神社として転形されるとともに、風の神・戦の神としても機能するようになったらしい。
 諏訪神社が関東各地に勧請されるようになったのは、水源信仰や風を支配する神としての機能が求められたからだと思われるが、八幡神と同じく戦争神として厚く信仰したのは在地の武士たちだっただろう。
 このような武士が現われたのは、時代としては、平安時代後半ころからである。

 在地の武士とは、江戸時代の武士からイメージされる、職業的・身分的な武士ではなく、配下とともに武装した土豪である。
 彼らは小さな地域の小支配者であり、農業を含めあらゆる雑業に従事していた「百姓」を支配しており、より大きな支配地域を持つ大きな土豪に従属していたが、その主従関係は全面的・固定的なものではなく、時々の形勢に応じて、「主君」を変えることもしばしばだった。

 地域においては、ヤマト政権の正史に残るような戦乱以外に、大小の擾乱が日常的に生起していたはずである。
 正史に出てくる戦乱など、コップの中の嵐に過ぎないと考えた方がよい。

 戦乱の日常の中にあって、八幡信仰や諏訪信仰が武力神として中部から関東一円に拡大したということなのだろう。
 武力神の機能が最大限に求められる動乱の時代の最たるものが、戦国時代だった。
 武田信玄が諏訪神社を厚く信仰していた事実、諏訪神社は武田の勝利を祈願すべきものとさえ、考えていた事実は、そう考えれば理解しやすい。

 江戸時代になると、武力神の必要性が希薄になった。
 諏訪神社も八幡神社のいずれにおいても、武力神としての機能は後退していった。

 本のサブタイトルに、「失われた感性・民俗」とある。
 戦乱が日常であるような感性を想像しないと、諏訪信仰や八幡信仰は理解しがたいのではないかと思う。

(ISBN978-4-7879-6102-0 C0221 \1000E 2008,4 新典社新書 2011,3,16 読了)

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