野田正彰『させられる教育』

 「日の丸」「君が代」の強制が、教師の心性と教育にどのような悪影響を及ぼしているかを、精神医学の見地を含めて論じている。

 論旨には、納得できる部分が多い。

 「日の丸」「君が代」の強制が、ハタ・ウタの問題でないことは、渦中にいながら感じていた。
 それは何よりも、討議と合意に基づく学校運営が上意下達になることを意味していた。

 家永三郎先生による教科書第二次訴訟において、一審判決(いわゆる杉本判決)は、「国家は、右のような国民の教育責務の遂行を助成するためにもっぱら責任を負うものであって、その責任を果たすために国家に与えられる権能は、教育内容に対する介入を必然的に要請するものではなく、教育を育成するための諸条件を整備することであると考えられ、国家が教育内容に介入することは基本的には許されない」と述べ、「教育行政ことに国の教育行政は教育の外的事項について条件整備の責務を負うけれども、教育の内的事項については、指導、助言等は別として、教育課程の大綱を定めるなど一定の限度を超えてこれに権力的に介入することは許されず、このような介入は不当な支配に当たると解すべきである」とした。

 洞察に満ちたこの判決が書かれるにあたって、教育とはどのような営みかという点をめぐる議論が法廷の中で深められた。
 教育活動の主体は子どもであるが、教師は子どもの学びを組織し援助する、というあたりが、ここで成熟していった教育観だったと思う。
 今思えば、それはおそらく、戦後日本教育の最高の到達点だったのではなかろうか。

 大学で受けた教職課程の授業の多くも、そのような教育観に立脚していた。
 ライフワークに関する勉強だから、自分なりに真剣に取り組んだし、当たり前のことだが、教育学とは人間の本質にかかわる勉強だから、とても興味深く勉強することができた。

 教育現場に身を置くようになった最初の職場が小規模定時制高校だったため、現場の実態と大学で学んだこととの間に、乖離はあまり感じなかった。
 定時制とは、子どもの学びに寄り添うことを中心とする、理想に近い教育環境だったのだと思う。
 そのことは、中堅職員となったのち、二度目の定時制勤務の際にも、痛感することになる。
 学びの場でありつつ人間形成の場でもあるという学校で、生徒も保護者も教職員も育ち、かけがえのないものを得ていった。

 ひたすら学びの本質を追求することに夢中になっている間に、教育をめぐる政治的環境が激変した。
 1980年代から1990年代にかけて、産業界と文部官僚によって日本の教育は、子どもの学びの場から、「人材育成」の場へと変質させられていった。
 これは、教育観のコペルニクス的転換だったにもかかわらず、その点については、あまり話題にならなかった。
 やむなきことではあるが、国民の関心は、日本の教育がどうなるかより、まずは自分(と自分の子ども)がどうなるかに向けられており、制度への抵抗はほとんど起きなかった。

 文部省は、教育政策への国民の関心が、制度より自分の子どもがどうなるかに向けられていると見抜き、学習指導要領で「日の丸」「君が代」の義務化を決めた。
 これに対し、現場は抵抗したが、案の定、国民的な抵抗はほとんど起きなかった。
 「日の丸」「君が代」の強制を国民が支持したというより、そのようなことに対し、国民的関心はほとんどなかった。

 文部省による「日の丸」「君が代」強制も、国民が望んで行われたことではなかったが、それに対する抵抗もまた、国民の関心の外にあった。
 すべてが国民とは別の世界で、ことは進んだ。

 文部省が締めつけを強化したため、「日の丸」「君が代」の実施率及び上意下達式学校管理は漸増したが、決定的ではなかった。
 現場では、1980年代末に労働組合が分裂し、連合傘下の日教組は基本的に、「日の丸」「君が代」強制圧力に屈服した。
 さらに「国旗国家法」(1999)が成立し、政府がこの法を根拠とする強制はないと述べていたにもかかわらず、各地でハタ・ウタ強制に屈服しない教職員への恫喝・処分・排除が続出した。
 産経など右翼マスコミと右翼政治屋は、それ以降、抵抗する教職員を社会的に抹殺するため、報道・議会発言などの場で煽動を続けており、ネット上でも、そのような煽動的な考えを支持する意見が多い。

 現状では、教職員に思想・良心の自由など存在しないという考え方が、当然視されているかのようである。

 しかしまた、良心に反し、なんの正当性もない行為を強制するのが一種の暴力であることは、当然のことである。
 暴力は、どうやっても合理化できない。
 右翼マスコミ・議員は、「上司の命令なんだから従わなければならない」とか「決まりなんだから従わなければならない」と言うが、ウタ・ハタに関する上司の命令は、そのまた上司の命令のオウム返しにすぎず、その最終的な根拠は、学習指導要領という一片の文科省告示に過ぎない。
 近年の司法は、「学習指導要領の法的性格」を認めようという体制順応的な判断に傾きつつあるが、「学習指導要領」はどう偽装しようが法律ではありえず、人の良心を蹂躙するまでの根拠になど、なりようがない。

 現場でハタ・ウタが一種のタブーとなり、みなが議論を避けるようになるのが、もっともまずい。
 教育基本法改悪など教育をめぐる環境はひどく悪化しており、学校現場におかしなマニュアリズムが導入されて、教師も子どもも戸惑っているが、教職員の良心によってバランスが保たれ、平和な学校は、維持されている。

 どんな忙しく、気苦労が多くとも、子どもと教師の学びあい・育ちあいが実感できる教育現場を復活させるために、良心だけは曲げられない。

(ISBN4-00-023007-7 C0037 \1700E 2002,6 岩波書店 2010,8,30 読了)