網野善彦・森浩一『この国のすがたと歴史』

 日本列島の生活文化に関する、考古学者と中世史研究者の対話。
 この列島の民が、どのように動いてどのように暮らしてきたのかを、ダイナミックに語っている。

 話者たちの言葉には、歴史を研究する上でのヒントがすこぶる多く、知的刺激を受ける。

 話題は多岐にわたっているが、今後の自分の勉強にとって特に重要と思われる点をいくつかノートしておく。

 列島の民の知識や技術の水準は、縄文時代以来、一貫して高いものがある。
 網野氏は、「百姓は農業だけをやっているわけでは決してありません。いろいろな農業以外の多面的な生業にも従事しており、それが相当のレベルにまで達している」「そうした層の厚い百姓の技術を背景に高度な職人、スペシャリストが現われるのだ」と述べている。

 列島の民は、暮らしや交易のために、さまざまなものを作る。
 それらの技術は基本的に、誰もが普通に身につけていた。
 それらの中にあった、商品としてことさら価値のあるものが交易・販売された。

 山暮らしをしていると、周囲の人々は確かに、たいていのことは自分でやってしまう。
 それが暮らすということなのだから、驚くには値しない。
 むしろ、お金がなければ何もできない現代人は、列島民としては、えらく退化してしまっているという事実を、よくよく直視すべきである。

 各種植物や原材料は、縄文時代以来、東アジア的規模で交易されていた。
 環日本海ネットワーク、南西諸島・大陸ネットワーク、西日本・朝鮮半島ネットワークなど、日本列島をめぐる重層的な物流・交流ネットワークが、「国家」の枠を超えて存在し、人と情報が行き来していた。
 黒曜石・サヌカイト・ヒスイなどの石類、桑・栗・ぶどう・梨・漆・薬草類などの植物類の使われ方と伝播経路について研究することで、支配者によって把握された貢租を中心に見たときとは異なる、より生活実態に近い時代像が見えてくるのではないか。

 関東山村の歴史に関係が深そうなのは、黒曜石と栗・漆である。
 黒曜石は主として縄文時代の交易ネットワークにかかわる資料だが、栗・漆(場合によっては桑や楮・ミツマタも)などは、江戸時代までの民衆の暮らしや交易を俯瞰できる資料たりえよう。

 このところ、秩父の奥山山村が、秩父事件前後にデフレによって壊滅的なダメージをこうむった形跡がないことや、微々たる石高にもかかわらずおおぜいの戸口を養っていることの理由がなんなのか、考えあぐねている。
 この対話の中に、多くのヒントが隠されていそうな気がする。

(ISBN978-4-02-259876-9 C0321 \1200E 2005,5 朝日選書 2011,3,3 読了)