田中彰『岩倉使節団』

 廃藩置県によって幕藩体制に終止符を打った直後の1871年、岩倉具視以下の明治政府の指導者たちは欧米視察に出かけた。
 帰国はバラバラだが、基本的には1873年である。

 そのこと自体、ちょっと驚くべきことで、政府の機構も流動的で、国家構築の方向性さえ固まっていない段階にあって、主たる指導者が2年もの長期外遊に出かけるなど、一般的には考えがたいことである。

 ところがこの外遊によって、明治政府は着実に国家構想を構築していった。
 この外遊なくして、あのような形での明治日本は、あり得なかった。
 明治日本を是とするにせよ否とするにせよ、日本が植民地化を免れ、独立国であり続けたということまで、否とする人はいないだろう。
 とすれば、莫大な経費を投入し、錚々たる指導者に内治を放擲させるという代償を払ったこの外遊は、日本の近代化にとって決定的な意味を持ったということになる。

 外遊が収穫多いものとなったのは、指導者たちもさることながら、政治・経済・技術・文化・風俗など見聞するものすべてを徹底的に記録し、咀嚼し、それを国家構築にどう活かすかを考えぬいた、大量の若い官僚たちの存在も大きかったと思われる。

 全権岩倉が出発時に47歳、それに次ぐ立場の木戸が39歳、大久保が42歳だから、最高指導者自体が、近年の政治家よりはるかに若く、随員たちとなると、ほとんどが20歳代の血気盛りの青年たちだっただろう。

 彼らに共通しているのは、烈々たるナショナリズムだった。
 この時点での明治ナショナリズムは、大国主義・侵略主義・国家主義のいずれにも未分化で、独立の維持と欧米的近代化を希求する以上のものではなかっただろう。
 この外遊での見聞が、彼らのナショナリズムに色をつけていくことになったのである。

 彼らは、アメリカやイギリスの経済力・技術力に驚嘆するだけでなく、その底に流れているのが「自主の気概」すなわち資本主義生成期の起業家精神であることを、しっかり見抜いている。
 また、資本主義化に伴って、ドロップアウトする貧しい人々が大量に発生することも理解して、暗澹たる思いになったりもしている。
 資本主義の光と影について、彼らは、じつに正確に把握している。

 国家像・国家経営のあり方については、プロシアを訪れ、ビスマルク・モルトケの信念に接して、彼らは一驚し、蒙を啓かれる。
 彼らは、戦争を好むものでないと述べながら、正義も真理も力の中に存すると述べ、国家経営の要諦はパワーポリティクスにあることを明言した。
 プロシアは、後発資本主義国でありながら、武力と外交術によって着実に自歩を固めつつある新興国だった。
 この言葉は、日本と米英との絶望的とも思える差に圧倒されていた明治政府の指導者たちに、国家づくりの方向性を強く示唆した。

 日本が東アジアにおける少帝国への道を歩み始めたのは、使節団帰国から2年後の1875年の、江華島事件からだった。
 彼らは帰国後、征韓をめぐって西郷・板垣らと袂を分かつわけだが、それは基本的に政府内のヘゲモニー争いであり、少帝国化の路線に関して、西郷らと大久保らに決定的な相違があるわけではなかった。

 古い本ではあるが、維新史・自由民権運動史を学ぶ際の必読文献だと思った。
(0221-158873-2253 1977,10 講談社現代新書 2010,8,3 読了)