高遠旅石工を主人公にした小説。
山村に生きるの最近の記事
大正末から敗戦ごろにかけての、石和周辺の村人の毎日を淡々と描いた小説。『深沢七郎傑作小説集』の第二巻。
帯に「いま、日本で起きていること」とあるので、鳥獣害の現状や対策について書かれた本かと思ったが、そうではなく、主題としては、人と野生動物との関係についての思想史的な考察が中心の本。
『僕の村の宝物』や映画『水になった村』にも登場する廣瀬ゆきえさんの一代記である。
秩父郡小鹿野町の長沢(ちょうざわ)耕地の1950年代から1960年代ころにかけての暮らしを、子どもの目線から回想した本。
檜枝岐奥の暮らしの聞き書き。
魚沼のどん詰まりである現在の湯沢町で動物を狩り暮らした人の口述。
『山と猟師と焼畑の谷』で、山田亀太郎氏は猟や釣りに終始した人生を語った。
秋山郷から苗場山や鳥甲山に登ったことがある。
ただの観光で訪れたこともあるし、『山村で楽しく生きる』という本を読んだこともあった。
聞き書きを中心とした白土三平伝。
中津川の奥、小倉沢にある秩父鉱山のかつての姿をいろいろな形で描いた書。
新潟県山古志村から広神村へ抜ける中山トンネル開削のドキュメント。
山で暮らす人々を詩的な文章で描いた本。
秋山郷の木鉢製作だけでなく、秋山郷の暮らし全般についても記されているので、興味深い。
中越大地震で壊滅的な被害を被った山古志村で、避難と復興の陣頭指揮に当たった当時の村長(現在自民党衆議院議員)だった長島忠美氏の主として震災当時を取材したルポ。
横浜の高校を卒業した青年が、三重県の林業会社に就職させられ、山仕事と地域の現実を理解していくという小説。
よくよく考えれば非現実的な部分もあるのだが、山村の現実をよく取材した上で書かれているので、リアリティがある。
> 自分が現在暮らしているのは、たぶん「限界集落」だと思う。
ちゃんと住んでいる戸数も人口も、減っている。
今後、賑やかになる気配は、ない。
宮崎県椎葉村で焼畑を営んでいる人々を取材したルポ。
農業や山仕事に、主として信州で携わっている人々を取材したルポ。
とりあげられている方々は、地元に根ざして暮らしておられる方も、脱サラとか新規就農された方も含まれる。
著者の他の本は、何かのテーマがあるが、この本は、紀州中辺路町野中での、著者の日常を淡々と綴ったエッセイ集である。
その意味では、一読することによって新たに開眼するということもさほどなく、淡々と読み終えた。
著者が戦後、家族や仲間と共に炭焼きや林業労働に携わってきたかつての現場を、回想とともに訪ねて回った際のエッセイ。
読んでいると、薄暗く演出された博物館で、戦後まもない頃の林業労働の現場に関するよくできた展示を見ているようだ。
書名には「奇人考」とあるが、奇人の伝記ではなく、前半は、信州の特産物をめぐる人物群像、後半は、歴史の主舞台から少し離れたところを歩いた信州人物誌である。
江戸時代から明治にかけて、日本海で活躍した北前船の略史。
この著者の文章は実に読みやすい。
新潟県刈羽郡西山町の、戦後を中心とする定点観測史。
古き時代の、渓流の記録。
釣りの話がたくさん出てくるが、釣行記ではない。
また、古き時代とはいえ、よき時代の話でもない。
風前の灯とも言える山村暮らしの聞き書き。
対象は主として、丹波・丹後・湖北だが、聞取りが1981年頃とのことなので、それから30年がたとうとしている現在、ここに紹介された人々の多くは、もうご存命ではないと思われる。
2010年2月現在、民放ラジオでとても不愉快なCMが流れている。
それは耐震住宅の宣伝で、女優らしき人が「もう地震は怖くない」と断言するのである。
何たる不遜。何たる傲慢。
『心の民俗誌』の著者で、作家の小山勝清の伝記。
長野県木島平村に週末暮らしを始めた出来事記。
生活の拠点を村に移すのでなく、ライターとしての職業は都会の自宅でこなし、山村生活をエンジョイしようという暮らし方である。
1925(大正14)年に刊行された著者の『或村の近世史』をメインに、高田宏氏が編集された本。
「里山からのメッセージ」という、洒落たサブタイトルがついているので近年の著作かと思ってしまうが、たいへん古い時代の、熊本県の山里における出来事集である。
過疎化の渦中にあった7つの村の村長へのインタビュー。
インタビュー自体は1985年から86年に行われており、話の内容は、バブル期のリゾートブームより前のことである。
洞川周辺の食や大峰の植物などについての覚え書きを記した書。
大峰山脈の麓、奈良県吉野の山村暮らしに生起する日常を描いたエッセイ風の私小説。
著者は歌人である。
ちょうど10年前の渓だよりに
旧沢内村(現西和賀町)の深沢元村長の評伝。
深沢氏の人となりについては、『沢内村奮戦記』にも紹介されているが、伝記的にその生涯を追った本は、本書だけである。
『山村で楽しく生きる』を読んだのは11年前らしい。
苗場山や鳥甲山に登ったことはあっても、栄村をほとんど見ていなかった。
岩手県の近代製炭業史。
史料と聞き書きによって、各時代の木炭生産がどのような位置づけにあり、どのような人々が炭を焼いていたのかを概観できる。
もの作りやまつりを素材として、東北の風土について語った本。
同じく「動物誌」と題された本だが、西丸震哉氏の『山の動物誌』とは読後感がまったく違う。
熊野の山里にかかわるエッセイ集。
内容は多岐に渡っているが、山里にかかわるさまざまなことが語られている。
山林労働にかかわるもろもろのことを記録した本。
サブタイトルに、「山びとの民俗誌」とある。
朝日連峰を歩いたとき、どこかで見た観光案内に「空気神社」がのっていたような気がする。
しかし、「神社」というからには鳥居と本殿のある神社なんだろうと思い、さほど興味をひかれることはなかった。
百姓とはほんらい、たくさんの職業という意味なんだろうが、今の日本では農業者という意味で使われている。
岩手県岩泉郡有芸村肘葛地区の暮らし方が、昭和初期から現在にかけてどのように変化してきたかを、丹念な調査によって記録した書。
関越トンネルを抜けてしばらく走ると、湯沢町の異様な光景が見える。
バブル経済のモニュメントともいうべき、リゾートマンション群である。
サブタイトルに「山林労働者の日記」とある。
紀州・熊野の山林労働者だった著者の労働日記。
熊野・中辺路町における、山里の暮らしが淡々と綴られている。
偶然ではあるが、著者が住まわれているという集落に、真夏のある日に、一度訪れたことがある。
サブタイトルに、「ヒエと木の実の生活史」とある。
山村における食とは、いかなるものだったのかという基本的な問題について、今までの歴史学はあまり関心をよせてこなかった。
国家的なプロジェクトやイベントの開催によって地域振興や一攫千金が夢見られた地域は数多い。
埼玉県秩父地方も、1990年前後には、リゾートブームに湧いた。
岩手県沢内村を中心とする山間豪雪地の医療のあり方について論じた書。
国保連合会の側から沢内村の実践をまとめている。
鉱山という世界にあまり親近感を持つことができない。
たぶん、それがあまりに消費的な産業だからだろう。
田中角栄氏の集票構造がいかに形成されてきたかを丹念に追ったルポ。
日本の政治において政治家とは、オモテの権力者であると考えればよいだろう。
ウラに、アメリカにいるようなフィクサーがいるかどうかは、よくわからないが、
宇江敏勝氏の『炭焼日記』のコミック版。
田中角栄氏をどう見るかという問題は将来、歴史学的な論点になるだろうと私は見ている。
自分自身では、保守とは対極の位置に身をおくという自覚を持っているが、角栄的なものを「金権腐敗」の一言で片づけようとするような発想には、怒りさえ感じる。
岐阜県徳山村の分校の先生が書いた子ども向け小説。
初版が刊行されたのは1979年とある。
徳山ダム反対運動がまださかんだった時代の作品である。
地域が存在し続けていく上で第一義的に必要なのは、産業である。
今の日本では、グローバル経済の影響で経済価値に異常をきたしており、投下労働に比した経済的価値は、農林水産物より工業製品や各種サービスの方がはるかに高い。
問題の中心はここにある。
安全保障の基本は食糧の確保だろう。
戦後の保守政権が安全保障を真剣に考えてるのか疑わしいのは、食糧政策が恐ろしく杜撰だからだ。
新潟県松之山町の1985年時点における現状ルポ。
ちなみに同町は、近年の合併によって既に自治体ではなくなっている。
同じ著者による『炭焼日記』の読書ノートに「この本で見る限り、著者は、山林作業の経済や自然環境や、生活自体を記録することにさほど熱心ではないようです」などと失礼なことを書きましたが、こちらの本には、山林作業の経済や食べ物や祀り等についてたいへん詳しく書いてあります。
本書の最後にもふれてありますが、著者は無着成恭編『山びこ学校』の生徒の一人です。
この国は、国土の大部分を山(傾斜地)によって占められています。
こういう国が持続していくために、どのような暮らし方が必要か。
わたしは、そのように問題を立てたいと思います。
静岡県龍山村(現在浜松市と合併)森林組合が、林業とともに村を立て直していった記録。
本が書かれたのが1970年代末なのですが、2006年現在も活発な事業展開をしているようです。
マタギや山小屋オーナーなど、山で暮らす人々からの聞き書き。
こういう本を何冊か読んできましたが、本書について言えば、読後感は今ひとつ。
山林作業の合間に書かれた生活エッセイ。
これらの文章が書かれたのはおおむね1970年代。
舞台は紀伊半島南部の果無山脈です。
新潟県黒川村の戦後村政史。
村政史といってもここは48年にわたって伊藤孝二郎氏が村長を務められてきたので、氏による村づくりのアウトラインをスケッチした本といっていいと思います。
着工をめぐる動きが大詰めを迎えつつある、熊本県川辺川ダムの地元、五木村周辺に生きるおおぜいの人々にとって、ダムとは何なのかを丹念に取材したルポ。
兵庫県の過疎の村で、6人の子どもたちと暮らすお父さんの話。
地球と調和して生きようとする著者の思いが、あふれ返っています。
若い写真家が徳山村でしばらく生活をした、ちょっと珍しい体験を書き記した程度の本かと思って、気らくに読み始めました。
世界は、経済的・軍事的・政治的・精神的なグローバル化の流れの中にあるようです。
その辺境に位置するイスラム世界が、アメリカ中心のグローバル化に対して、激しく異議申し立てをしている、というのが、世界の現実と、思われます。
全国8ヶ所のダム建設予定地の住民を取材したルポというか、取材ノートという感じの本。
今の時代に、巨大ダムの建設が必要だという人が、はたして、いるでしょうか。
それほど、「ダムはムダ」というのは、国民の常識となりつつあります。
この本は、朝日連峰に生息する鳥やけものについて書かれた本ですが、鳥やけものの観察記録とか、分類学的特徴とかについて書いてあるのではありません。
1944(昭和19)年に刊行された画文集を体裁を変えて復刻した本です。
峻険な脊梁山脈に膨大な水と森林を有し、その山地を背景として成り立つ扇状地及び沖積平野を舞台に、日本人は、独特の文化を創りあげてきたわけです。
鎌田氏の本を読んだのは、前著『白神山地に生きる』(ISBN4-560-04008-7 C0040 P1700E 白水社 1987,6刊)に続き、2冊目です。
山村が、どんどん崩れて行きつつあります。
その流れを止めるすべは見つかりません。
『山の民』同様、山国飛騨の農民のたたかいを描いた小説集です。
『山の民』が、維新期の梅村騒動を描いたものだったのに対して、こちらは江戸中期の大原騒動に取材して書かれています。
近畿の南の屋根、大峰山麓の山暮らしについての本です。
古い時代から現場の山仕事(伐採・搬出・育林)に携わってきた著者による、仕事の内容や、請負システムについての語りは、とても興味深いものがあります。
熊野とは、どこにあって、どういう山のあるところなのだろう。
そんな気持ちで、読み始めました。
渓流釣りや山歩きをしているうちに、日本という国における山村と都会との関係、といったことについて、考えるようになりました。
この本は、埼玉県秩父の山村に建設された合角(かっかく)ダムによって水没する地区のご老人からの聞き書きです。
リゾート法が制定され、不動産・土建業者が日本を荒らし回っていた時代に、巻機山麓の清水集落でどのようなことが起きていたかを記した本。