占領期の沖縄における高校のようすを描いた美しい小説。
教育の最近の記事
不登校体験者がどのように不登校を生きてきたかをインタビューした本。
『山びこ学校』の周辺を詳細に取材した書。
教育現場から教育学が存在しなくなって久しい。
大学の教職課程には、教育とは何かを学ぶ「教育原理」や子どもの発達の論理を学ぶ「教育心理」という科目があって、そこで基本的なことを学んだ。
「教員赤化事件」で教壇を追われたのち、東京で社会教育に関する仕事をされたという著者の小説集。
折り目正しく誠実に自己を見つめた、小説らしい小説で、たいへん読み応えがあった。
学校という世界は、普通の人には理解できない一種独特の論理で動いているのだろうと思う。
この世界を構成しているのは、とりあえず生徒と教師である。
「日の丸」「君が代」の強制が、教師の心性と教育にどのような悪影響を及ぼしているかを、精神医学の見地を含めて論じている。
教育格差の実態や背景に詳しい評論家による、これまた内容濃い対談。
森永氏は経済学から、尾木氏は教育政策の面から、新自由主義経済とその教育政策を斬っておられる。
大阪府知事が「社会に出たら全部競争。競争を否定して、競争の荒波に子どもたちを放り投げて後は知らん顔する。一部の教員の無責任な態度だ」(2008,11,25 Asahi com)などという発言をすると、多くの人が支持する。
この発言は基本的にピントはずれなのだが、なぜ的外れなのかをきちんと説明するのは、そう簡単ではない。
東京都教育委員会の暴走ぶりは、異常そのものである。
教育委員だった将棋指しが2004年に、「日本中の学校で国旗を掲げ国歌を斉唱させるのが私の仕事であります」と述べて天皇から「強制でないのが望ましい」とたしなめられたニュースがあった。
東京の教育の世界では、右翼的であればあるほど喜ばれると思っているのだろう。
岩手県の山村において、小中学校がどのようにして作られ、どのようにして消滅しつつあるかをあとづけた書。
学校が、子どもの権利を保障するためでなく、国家の都合により適宜存廃されてきた歴史を明らかにしている。
学生時代の1975年に受講した「教育心理学」の講座で先生に読むように勧められた記憶があるのだが、奥付を見ると1977年刊とある。
読めと言われたのはたぶん、同名のゲゼル著の方だろう。
教育は子ども自身のために行われるという理念がある程度有効だったのは、1980年代まででした。
1990年代以降、教育は国家のために行われるということが一層鮮明になり、子どもは国家の道具に過ぎないという思想が、堂々とまかり通るようになってきました。
発達障害を持つ32歳の青年が、脳外科の手術によって急激な知的発達をとげたのち、手術に内包されていた致命的な欠陥により、急激な知的退行を体験するという小説。
どうしようもない自縄自縛に陥っている学校現場の現実と、そんな現実の中で、懸命に自分のアイデンティティを求めて苦闘する母子の内面を描いた小説。
2002年春現在、定時制高校は、学校教育の最後の砦のひとつであるといえるだろう。
わたしの見たところ、このルポ集に収録されているのは、1990年前後の学校の姿だろうと思われます。