斉藤利男『平泉』

 1990年前後における最新の発掘調査に基づいて、平泉政権とは何だったのかを論じている。

 「後三年の役」によって、衣川以北・の津軽海峡以南が、京都政権の版図に組み込まれた。

 それ以前の北東北は「俘囚の地」だったのだが、藤原清衡の段階で、京都政権にとっての「内国」扱いが達成されたということである。

 平泉政権は、京都政権に貢納し、陸奥・出羽の押領使あるいは陸奥守・鎮守府将軍に封せらされる事によって東北支配の正当性を獲得した。
 また、平安時代末期の京都を模倣した都市づくりや寺院建築によって、文化的に京都政権と遜色のないことをアピールした。

 平泉政権の権力基盤について、本書での追究は十分でない気もするが、白河関から外浜(そとがはま)に至る奥大道や、北上川の舟運、日本海の海運を利用した交易の利が大きかったのではないかと考えられる。

 本書で著者は、東北を支配した平泉政権が、権力関係においても、文化的にも、「中央政府」(京都政権)の支配下にあったと考えておられるようであるが、問題は「支配下にあった」ということの意味である。

 平泉政権は京都政権(のちには鎌倉政権)の官僚だったわけではない。
 むしろ、緩慢な服属関係を結ぶことによって独自の権力を維持しようとする、したたかな戦略を持っていたといえるのではないかと思える。

 平泉政権にとって、もっとも恐るべき敵は、隣接する地方政権に成長した頼朝政権だった。
 そんな平泉政権が存立する上で、京都政権と義経はもっとも重要な大看板になりえた。

 頼朝は、京都政権には平泉政権と手を切らせ、平泉政権に義経を殺害させて、東北を支配下においた。
 平泉政権が滅亡した1189年に至ってようやく、東北は「日本」(とはいえそれは鎌倉政権だったが)に屈服したといえる。

(ISBN4-00-420214-5 C0221 \580E 1992,2 岩波新書 2013,9,5 読了)