篠原賢『大王と地方豪族』

 「倭の五王」の時代から「乙巳の変(大化改新)」の時代にかけての、大王と地方豪族の関係がどのように展開してきたかをあとづけた書。

 「倭の五王」の記事は、受験生でも知っているように「宋書」に出てくる。当時の歴史を探る文献史料としては、他に「記紀」およびいくつかの著名な金石文しかなく、それらの史料に依存している限り、現状では、「通説」以上のことはわからないのではないかと思える。

 それでも、これら既知の史料を合理的に解釈するだけでも、列島の相当部分を支配したヤマト連合政権と、たとえば上毛や武蔵に展開した地域政権との関係を、再構築することができそうだ。

 古くから存在する考え方だが、「記紀」に記されている歴代の大王の血縁関係はすべてではないにせよ創作であり、地方豪族によって共立された即位順を示すものとした本書の方が、合理的である。

 「倭の五王」期は、大王位をめぐる激しい争闘・殺戮の続いた時期らしい。
 武力によってこれを制し、血縁による大王位の継承に道を開いたのが、ワカタケルだった。

 この人が実在したことは、複数の史料によって実証されている。
 その史料の一つが、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘だから、興味が深まる。

 稲荷山古墳の被葬者は、「ヲワケの臣」である。
 彼が特筆した事実が、自分が「杖刀人の首」としてワカタケルの「天下を左治」したということであるから、武蔵の地域政権がヤマト連合政権の支配を担っていたことは間違いない。
 その事実をもって、武蔵が、ヤマトの版図の一部であったように解釈してはならず、ヲワケらは、共立政権の「杖刀人の首」だった事実を後世に残したかったのである。

 江田船山古墳出土鉄剣銘の被葬者ムリテが就いていた「典曹人」も同様である。
 ワカタケルの時代に、ヲワケやムリテがヤマトの官僚だったわけではなく、共立者の一部だったと考えるべきなのだろう。

 一方、相変わらず争闘を繰り返していたヤマト周辺の権力者たちは、より広範囲の支配組織として国造制を整備しようとしていた。
 国造は、必ずしもヤマトの地方官だったわけではなく、出雲国造のように一定程度、独自の権力を持ち続けた場合もあるが、国造になる以前と比較すると、権力の独自性に制限がかけられたものと思われ、それが、武蔵国・笠原一族の小杵が、上毛の支配者・上毛野君小熊と連合してヤマトに敵対する動きを示した事件の背景だと考えられる。

 本書は、笠原一族を、埼玉古墳群の被葬者たちに否定しており、それが事実だとすると、かつて「杖刀人の首」に任じられて喜びを語った人々の中に、ヤマトの官僚に成り下がるのを拒否しようとする勢力もいて、それらの勢力が、上毛との広域連合によってヤマトによる植民地化に対抗しようとしていたということになる。

 小杵や上毛野氏の歴史は、文献からは消されたが、考古資料から、復元できる部分はないのだろうか。

(ISBN4-634-54050-9 C1321 P800E 2001,9 山川出版社 2011,8,17 読了)