銭谷武平『役行者伝の謎』

 数多ある役の行者の伝記・伝説類を博捜し、役の行者の実像に迫ろうとした書。

 とはいえ、行者伝の中で信頼に足りそうなのは、『続日本紀』にある、彼が伊豆に流刑となったという記事だけである。

 つまり、この人物が存在したという程度のことしかわかっていないのである。

 行者の生誕がいつであるかも全くわかっていない。
 著者は舒明天皇在位の初期(西暦630年代)であろうと述べておられる。

 役の行者は、葛城山(金剛・葛城山一帯)や大峰山脈で修行した人物らしい。
 その時代に、支配者の一部が呪術の一種として仏教を受け入れてはいたが、仏教思想の深みを理解するものが、どれだけ存在したかは、なんとも言えない。
 役の行者は役の優婆塞とも呼ばれるが、彼が実際7世紀に生きた人だったとして、在野の仏教者だったかどうかは、疑問とせざるを得ない。

 同時代の民衆の精神のありようを示す史実として、皇極3年(644)年7月に、富士川の辺で、大任部多がアゲハの幼虫らしき虫を「常世の神」だと述べ、大いに人に勧めたという記事が『日本書紀』にある。
 支配者も民衆も、意識においては、呪術や妖術に幻惑され、万事を迷信によって判断するという域を出るものではなかった。

 役の行者よりやや遅れて登場するのが、行基である。
 彼の思想も掴み難いが、民衆に囲まれて説教や勧進の日々を送った前半生は、釈迦やイエスを彷彿とさせるものがある。
 イエスは異端として処刑されたが、行基は国家に取り込まれ、地位を与えられて、国家のための仏教者へと変質していった。

 それでは、7世紀に山岳に籠り修行するとは、どういうことだったのだろうか。
 未だ不勉強ではっきりしたことを述べる力がないのだが、山岳修行は、すぐれて哲学的・個人的な修行だと考えている。

 他の生命を食らうことの罪深さをどこまでも突き詰めれば、木喰あるいは断食という結論に想到することは、一定の理にかなっている。
 巨岩をよじ登り、生死の境に身をおくことによって、自己の卑小さを徹底的に思い知ることもできる。
 永遠に動じない岩や、その岩をも削る滝や水流から、何がしかの超存在的な力を感じとることもできるだろう。

 それを理論づける必要はないのだが、彼が得た認識を問う者がいれば、答えなければならない。
 説明に用いる諸カテゴリーは、仏教の理論体系から借用する以外に、説明のしようがなかったから、仏教用語が用いられたのだろう。

 このような個人的哲学が、どの段階から出現したのかは、まったくわからない。
 もちろん、修験道を近代思想的に解釈してはならないのだが。

 役の行者は7世紀人だったかもしれないが、修験者の先駆けだった人物は、行基と同時代人だったような気がする。
 さらに、役の行者は一人でなく、複数の修行者の言動の総体が、役の行者伝へと転形されていることは、おそらく間違いないような気がする。

(ISBN4-88591-484-1 C0015 P2060E 1996,5 東方出版 2011,10,22 読了)