前沢和之『古代東国の石碑』

 森浩一氏は、列島に叢生した古代の地域文化を、文献資料によるバイアスのかかった眼で読むのではなく、その自立性に注目し、地域文化の論理から文献資料に内在する作為を解きほぐす方法を提起しておられる。

 地域文化を読む際の手がかりになるのが、考古資料である。

 古代の金石文は、記録を後世に残すことを強く意識されて製作されたものである以上、極めてイデオロギッシュな史料だということを念頭において読まねばならないだろう。

 少なくとも、これら金石文に記された内容を、歴史の捏造を目的として書かれた作品である記紀と安易に結びつけるような見方は、捏造者の罠に落ちることにほかならないだろう。

 7ないし8世紀に建てられた東国の石碑の概略を記した本書に、上記のような視点はほとんど見られない。
 例えば多賀城碑は、ヤマト政権による東北侵略の記念碑であるから、そこから地域独自の文化を読み取ること自体が、どだい不可能なのだと言える。

 秩父地方に隣接する上州南部には、上毛三碑がある。

 高崎や前橋に大きな古墳の存在することから、上州に、地域権力が存在したことは明らかなのだが、それがどのような形でヤマトの権力に屈していったかは、よくわからない。

 上州の地域権力がヤマトの権力とは全く別個の、渡来人系の権力だったことを示唆する伝承や仮説がある。
 古代の「渡来人」を「日本に移住してきた外国人」と捉えるのは正確でない。
 この列島自体、どこからか訪れた人々の住む島だったのであり、ここから去る人々も、新たに訪れることもいたはずだ。

 渡来人系の上毛権力は、ヤマトの権力と激突することなく調和する路線を選んだと思われる。
 利根川を渡った武州埼玉郡に存在した地域連力も、そのようにした。

 東北を侵略したヤマトの権力は、東北住民を「俘囚」として、西上州に連行してきた。
 上毛三碑の時代は、概ねこの時代である。

 三碑はおそらく、ヤマトの権力と調和することによって地域権力としての立場を安堵できた、上毛人の感慨の産物だったのではなかろうか。
 それは、武州埼玉郡から出土した鉄剣銘の所有者の感慨に共通する。

 地域権力に支配されていた民も、俘囚として連行されてきた民も、文字も伝承もを残さなかった。

 実際のところは、こんなではなかったかという気がする。

(ISBN978-4-634-54684-4 C1321 \800E 2003,1 山川出版社 2011,7,23 読了)