岸宣仁『職場砂漠』

 労働の疎外について、マルクスが、透徹した見方を示した当時、イギリスの労働者は確かに、人間でありながら人間でない暮らしを強いられていた。

 マルクスは、労働とは、人間の生きている証であり、アイデンティティそのものであると考えていたから、労働の場で自己存在を証しうる状態が、人間のあるべき姿と考え、社会主義・共産主義を望ましい社会と措定したのだった。

 労働が非人間化されるのは、コスト削減を必須の手段とする市場経済において、必然的である。
 人間の心を持った資本は、モラルという一点で踏みとどまり、従業員や地域と良好な関係を築こうとする。
 しかし、利潤追求以外のすべての営為を無駄なコストと考えた方が、利潤追求競争において有利だという考えもある。

 「考えもある」というのは、一見無駄と思えるコストが、従業員や地域や消費者によって評価され、大きな利潤に結びつくことも、現実にはありうるからである。
 会社や商店が「地域のため」「消費者のため」という経営理念を持つことは、実際に、経営上も有効なことが多いのである。

 「成果主義」という労働者評価が流行し始めたり、「労働力の流動化」と称して非正規雇用の割合が大きくなったり、国境を越えた企業買収が流行したりするのは、社会主義が崩壊した1990年代以降一般化したグローバル経済を原因とするのだと思われる。

 人をモノと同じように使い捨てる世界が現出して以来、命を絶たれたり断ったりする人々が続出し、生命を失う人の何百倍とか何千倍もの人々が、耐えがたい苦しみの中に生きている。

 一部の国では、同じような境遇の人々による抵抗のパフォーマンスが大きく報じられている。
 マスコミにはさほど取り上げられていないが、この国でも、同様のパフォーマンスが展開されている。

 一方、独裁政治に喝采を送り、公務員攻撃・在日朝鮮人攻撃・労働組合攻撃などによって憂さを晴らす人々も少なくない。

 この社会がどこに向かうかは、なんとも言えないが、全体状況を見失わぬように、理性を磨き続けたい。

(ISBN978-4-02-273158-6 C0236 \700E 2007,7 朝日新書 2012,1,17 読了)