山下恒夫『大黒屋光太夫』

 天明2(1782)年に遭難してから寛政5(1793)年まで、ロシアに保護されて、帰国後、貴重な滞露体験者となった船頭・光太夫の記録。

 「国境」など、もともと存在しないのだが、それが強く意識され始めたのは、近代国家成立期である。
 光太夫は、ロシアにとっても、江戸幕府にとっても、国家(江戸幕府が国家だったかどうかという細かな議論は省く)に益があるかどうかという観点から、人生を決められたといっていい。
 もっとも、国家的思惑があったればこそ、彼は日本列島に戻ることができたのであるが。

 日本列島の民は海民でもあったから、海上で遭難する人々は少なくなかっただろう。
 その中には、光太夫らのように生きて異国に漂着したり、ジョン万次郎のように異国の船に救助されるなどした人々もいたはずだが、多くは、歴史に名を残すことなく、異国での人生を終えるケースがほとんどだっただろう。
 そのようなケースはおそらく、不幸とか不運とは意識されず、九死に一生を得た幸運と受けとめられただろうと推察される。近代以前の人は、国家という人工的な観念から、今よりはるかに自由だっただろうから。

 光太夫らが帰国できたのは、エカテリーナ2世治下のロシアが日本との貿易を欲していたという事情や、松平定信治下の江戸幕府が、外国との接触に神経を尖らせており、外国に関する情報を求めていたという事情が重なったからである。

 シベリア鉄道のない時代に、アリューシャン・シベリア・モスクワ・ペデルブルグを旅するなど、奇跡のように思うが、国境のなかった時代の人にとって、そういう人生もまたあり、だったのだろう。

 ところで、本書から、光太夫と秩父との意外な関係を発見した。

 光太夫は帰国後、松平定信の吟味を受け、将軍徳川家斉に目見えしたのち、幕府に保護される身となった。
 江戸で再婚した光太夫は、妻とは別の娘との間に一男一女をもうけたが、息子の亀次郎は、秩父出身の漢学者日尾荊山の教えを受けて漢学者となったという。

(ISBN4-00-430879-8 C0221 \740E 2004,2 岩波新書 2010,6,27 読了)

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