小阪修平『思想としての全共闘世代』

 全共闘世代(いわゆる団塊の世代と重なる)が、この半世紀の間にどのような思想的体験を経てきたかを分析した本。

 著者なりの政治的・思想的立場が比較的明確に語られているので、わかりやすい。

 本の半分近くを、1970年代以降の時代回想が占めているが、読んでいてなるほどと思わされるのは、1960年代の全共闘運動に関する部分だった。

 1960年代後半は、1960年からの流れの上に位置する、運動の時代だった。
 反公害運動をはじめとする広範な住民運動がある一方で、大学では党派による組織的な運動とともに、全共闘というこの時期独自の運動が存在した。
 自分自身はポスト全共闘時代(1970年代半ば)に学生生活を送ったので、全共闘世代とは、ほとんど重なる部分がないと思っている。

 この本を読んで、全共闘運動がどのようなものだったのか、少しわかってきた。(思想的な意味についてはまだまだ消化しきれていない)。

 確たる組織を持たない運動だった点に、この運動の本質的な特徴がある。
 この時代の学生運動のもう片方の主役だった党派は基本的に、組織戦による闘いを行っていたのとは、対照的である。

 綱領あるいは行動原理がないから、具体的な闘争目標に賛同する者が闘争に参加する。
 行動に参加する者が、全共闘のメンバーである。
 闘争が盛り上がれば、参加者が増え、その質も先鋭化する。

 組織的な緩さは、参加へのハードルを低くするが、闘争の継続性を担保しない。
 闘争に何らかの決着をみて具体的な行動目標がなくなると、闘争のエネルギーが霧散する。

 このような運動形態が質的に低いとか、価値が低いとは思わない。
 このような運動にも、意味があると思う。
 党派による運動が弱体化している(と思われる)とき、闘争課題ごとに結集して闘う運動の意味はむしろ、大きくなっているように思う。

 1970年以降、潮が引くごとく運動が収束していったのは、組織が維持されなかったからだが、それはそれで歴史的な役割を終えたと解釈すればよいと思う。

 思想的には、ものごとを根本から疑い、制度のレゾン・デートルを求める思考方法を提起した点に、最たる意義があったように思う。
 高校時代にも「教師は人間のクズである」と題するビラを配っていた生徒がいた。
 自分には、「教師は人間のクズである」と思えなかったのだが、それでは実際のところどうなのかと問われたら、明確な返答はできなかっただろう(尊敬すべき先生が何人もおられたのが事実である)。

 党派も戦後「民主主義」も、批判の俎上にのせられたが、党派は党派的な議論で組織を守ろうとしたから、あまり生産的な議論にはならなかっただろう。
 全共闘に参加した学生は、議論から逃げない教師(林健太郎氏)や論客(三島由紀夫)を評価して、暖をとるため書籍を燃やした学生を非難した丸山真男を軽蔑したという。

 貴重な書籍を燃やす行為は、どうやっても正当化などできないが、議論を避けていては、真理に対し誠実でないといわれても仕方がないだろう。
 今や、国会議員でさえ、まともな議論ができようができまいが何とも思っていないらしい様子を見るにつけ、ここで提起された問題は、大事なことだったと思う。

 最後に、全共闘にせよ党派にせよ、1960年代の運動について一言。
 60年代は、農地法制定やダム建設などによって、地域社会が大変貌を遂げていた時代でもあった。

 学費闘争や反戦闘争自体は、それなりに意義のある闘争だっただろう。
 しかし、この国の地域社会が根底から崩壊させられつつあったとき、学生たちはどこまでそれを感知していたか。
 最もラディカルな思考を求めていながら、学生たちの多くが、実際にはきわめて観念的な世界で浮遊していたのではなかったかという危惧を持っている。
 ラディカルとは、人々の日々の営みの中に潜む問題性を抉り出す問題意識をいうのではないだろうか。

(ISBN4-480-06315-3 C0236 \700E 2006,8 ちくま新書 2011,2,28 読了)

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