列島の石器時代人とはどのような人々だったかに関する研究史。縄文人と弥生人についての研究ではない。
古代史の最近の記事
オオクニヌシによる国譲りの真相に迫ろうとした漫画。
記紀に記載されている「国譲り」神話に関し、江戸時代以来、神道神学上どのように解釈されてきたかをあとづけている。
4世紀末の高句麗との戦争以降の日本の対外戦争の特徴に焦点を当てた書。
将門の乱の意義を述べた書。
出雲に存在した小国家が東遷して邪馬台国となったと主張する書。
主として記紀に依拠しつつ、「継体天皇」前後の時代を描いた書。
記紀をしっかり読み込むことによってある部分は捏造や誇張であり、ある部分は史実だろうと推測する史眼を磨くことは、ある程度は可能だろうが、本書を読んでいると、記紀から自由にならない限り、天武以前の古代史を自由に構想することはできないことが痛感される。
古代に朝鮮半島南部から日本列島一帯に住んでいた人々を「倭族」と捉え、古代朝鮮における倭族の足跡を、民俗の中に探った書。
騎馬民族説をめぐる江上氏と考古学者の対論。とはいえ、内容的には、江上氏の語りが多い。
清張通史の最終巻。内容的には、奈良時代の政治史が中心である。
4世紀の列島に何が起きていたのかは、わかっていない。
そして、5世紀に入ると、『宋書』にいわゆる「倭の五王」が登場する。
この巻は、「通史」ではなく記紀の時代における、考古資料の意味について、作家が縦横に推理した叙述となっている。
この巻の中心的なテーマは、継体天皇と「聖徳太子政権」及び大化の改新だと思う。
松本清張氏が書こうとした歴史が、いくらか見えてきた。
それは、天武が記紀を通して捏造しようとした古代史の、実像に迫ろうということだ。
ユーラシア大陸的な規模で日本列島における古代国家の形成について展望した書。
推理小説家が書いた壬申の乱。
天武天皇を歴史の中に位置づけようとした書。
壬申の乱の概略とその意義について、『日本書紀』を徹底的に読み込むことにより、コンパクトにまとめた書。
古墳の分析から、日本列島における古代国家の形成について語った書。
記紀神話を分析することによって、古代ヤマト政権の性格を考察した書。
神話を単なる「物語」と片づけるのではなく、その内的構造を読みとることにより、歴史の真実に迫ることができることが記されており、「目からウロコ」と感じる部分が少なくなかった。
天皇の代でいう、推古から文武にかけての、飛鳥一帯に権力が存在した時代の通史。
『ヤマト王権』同様に、文献古代史の危うさを随所に感じながら読んだ。
考古学の研究成果から前方後円墳の時代を俯瞰した本。
前方後円墳の時代とは、3世紀半ばから7世紀初頭までの約350年間である。
ヤマト政権の成立から推古朝までを描いた通史。
考古学の知見によりながら、縄文時代から弥生時代への、列島における社会変容を描いた書。
「日本」の室町時代から戦国時代にかけて琉球王国が、事実上の独立国家だったわけだが、それに先立つ平安時代後半の平泉政権もまた、京都政権に従属する形をとりつつ、独自の支配権を持っていた。
三内丸山遺跡の発掘によって、列島の縄文時代とはどういう時代だったのかを論じた対談録。
対談者たちは、三内丸山とは、糸魚川から陸奥湾にかけての海上交易圏における、物流センター的な存在だったと述べられている。
考古学者・直良信夫氏の伝記。
氏の伝記は、自伝の『学問への情熱』、第三者による『明石原人の発見』の二冊があるが、本書は家族(娘)による伝記であり、直良氏の身辺に関する記述がされていて、氏の学問がどのような人生の中から生み出されたのかをいきいきと描いている。
考古学者・直良信夫氏が存命中に書かれた氏の伝記。
黒曜石製の石器に関する知見をわかりやすくまとめた書。
旧石器時代・縄文時代の歴史に対するイメージが『旧石器時代の社会と文化』と比較しても、時代のイメージがたいへん鮮明になってくる好著だと思う。
旧石器時代とは、更新世(温暖化が進行する約16000年以前)における無土器文化をさすらしい。
律令国家の地方支配の拠点であった国衙・郡衙がどのように役割を果たしていたのかを論じた書。
平安時代の地方行政のトップに位置づけられていた受領の実態を解説した書。
受領とは、任地へ実際に赴任した国司のトップである。
「倭の五王」の時代から平安時代後期にかけての東アジアにおけるネットワークについて、通史的に述べた書。
教科書史観が切り捨てる東アジア関係史の目新しさに唖然とする。
律令制時代のヤマト国家の対外関係における基本的姿勢を簡略にまとめた書。
律令制時代以前からヤマト国家が中国との冊封関係に消極的だった事実は意外だったが、認識を新たにすることができた。
平安京における行政の実相を記した書。
史料的制約があるから、もちろん、平安京における暮らしをあらゆる面から詳細に描いているわけではない。
藤原京は、ヤマト国家最初の本格的京都である。
位置的には、奈良盆地の南に偏しているが、権力内部のヘゲモニーを握った蘇我氏の基盤に近いところから、ここが選ばれたのだろう。
京域に大和三山を含んでおり、風光は明媚だったと思われる。
ヤマト国家成立後二番目に建設された都市である平城京は、どのような町だったのか、どのような人々が住み、どのように暮らしていたのかをわかりやすく説いた本。
古代ヤマト国家成立期における、東北地方との関係について詳論した書。
ずいぶん以前に、『蝦夷・アテルイの戦い』という本を読んだが、その本の一部にある荒唐無稽な言説に、ちょっと辟易した。
列島文化の基層が形成されたと思われる、縄文時代の全体像についての概説。
たいへん興味深いが、東西南北に地政学的条件の多様な日本列島において、一般論的な論断が不可能だという、著者の留保を念頭に入れて読む必要がある。
列島における仏教の濫觴期についての概説。
基本的に「記紀」の記述に沿って、古代仏教史を捉えている。
「倭の五王」の時代から「乙巳の変(大化改新)」の時代にかけての、大王と地方豪族の関係がどのように展開してきたかをあとづけた書。
列島の古墳を総合的に研究することによって、古墳時代の列島の権力構造に迫ろうとする書。
列島といっても、東北地方北部に古墳は存在しないから、古墳時代という語が有効なのは、九州・四国と東北北部を除いた本州である。
森浩一氏は、列島に叢生した古代の地域文化を、文献資料によるバイアスのかかった眼で読むのではなく、その自立性に注目し、地域文化の論理から文献資料に内在する作為を解きほぐす方法を提起しておられる。
地域文化を読む際の手がかりになるのが、考古資料である。
史料の少ない古代史において、「日本史」から自由であることはむずかしい。
作為に満ち満ちた歴史の虚偽を砕くのは、モノに依拠して書かれた歴史以外にはないだろう。
日本史というコトバの嘘っぽさが見えすぎてきたので、最近は列島史というコトバを使うようにしている。
このコトバは自分の感覚に比較的フィットしている感じで使っている。
釈迦は、紀元前6〜5世紀にインドに生きた人物であるから、その生涯を歴史的に明らかにするのは、ほぼ不可能であろう。
高校時代に読んだヘッセの『シッダールタ』をはじめ、彼の教義を評伝風に描いた作品は多いが、釈迦の実像にどれだけ迫れているかは、よくわからない。
ずっと以前に、中公新書版(1969)を読んだ記憶があるので、再読。
初めて読んだときにはさほど感じなかった、歴史叙述に対する著者の野心を心地よく楽しみながら読むことができた。
北八ヶ岳・麦草峠周辺にある、黒曜石の原石や石片探索記。
もっとも、どこの踏みあとをどう入るという記述を読んでも、具体的には全くわからない。
想起するのも忌まわしい、研究成果の捏造事件の検証。
アマチュア考古「学者」だった藤村新一は、1980年代から2000年にかけて、日本における旧石器時代研究をリードした人物だった。
一度だけだが、この男と会話したことがある。
簡単な解説を付したインカ帝国の史跡の写真集。
インカ帝国の最後については、ティトゥ=クシ=ユパンギ『インカの反乱』(岩波文庫)に概略が描かれています。
文献史学・考古学・地名学などを駆使して、古代から中世初めに至る蝦夷の歴史を略述した本。
エミシ文化のルーツや実体、ヤマト政権との抗争史の意味等についての、歴史ノンフィクション?。
読む順序が上中下バラバラになりましたが、ようやく時間ができて、上巻を読むことができました。