斉藤利男『奥州藤原三代』

 「日本」の室町時代から戦国時代にかけて琉球王国が、事実上の独立国家だったわけだが、それに先立つ平安時代後半の平泉政権もまた、京都政権に従属する形をとりつつ、独自の支配権を持っていた。

 著者の旧著『平泉』にはさほど明確な形では述べられていなかった、平泉政権の自立性に関する論点が、本書では全面に出されている。

 平泉政権の系譜は、奈良時代から平安時代にかけて北東北(北緯39度線以北)を実質的に支配していた安倍氏の一族である。
 彼らは奈良時代の「蝦夷」のように、畿内政権に徹底的に抵抗するのではなく、服従するかたちを採りつつ、北東北南部を支配していた。

 前九年の役・後三年の役は、京都政権で武力行動の実績をアピールしようとしていた源為義・為朝が安倍氏の内訌に介入した事件だが、一連の紛争の過程で指導権を握った奥州藤原氏は、京都政権の支配を部分的に受け入れつつ、実質的な奥州政権として君臨した。

 首都だった平泉は地下に埋もれ、田園と化して、人々の記憶からも薄れつつあったのだが、この間の発掘調査によって、平泉政権の実像が大きく書き換えられることになった。

 本書を読み進めながら驚いたのは、平泉政権の権力基盤がやはり、貿易だったのではないかと言う論点である。

 交易ルートは、平泉から出羽に抜ける二本のルートからの日本海路と北上川の舟運を利用して海に出る太平洋ルートだった。

 小説『奥州黄金街道』は、金成の金売り吉次が南宋まで品物の買い付けに出かけるようすを描いているが、それは空想上の事実ではなかった。

 三代目の藤原秀衡は、最も凶悪な敵は源頼朝であると見て、徹底的な抵抗をはかった。
 秀衡は、頼朝と拮抗するもう一つの政権である京都の後白河と手を結び、抵抗のシンボルとして、源氏の御曹司である義経を抱え込んで、最終的には全面戦争も辞さない姿勢をとったが、彼の命が尽きた直後に、平泉政権は瓦解した。

 平泉政権が京都政権の各種役職(陸奥・出羽横領使や鎮守府将軍)への補任や京都文化を積極的に受け入れたのは、彼らが京都政権の官僚と化したことを意味するのでなく、京都政権と良好な関係を結びつつ、独自支配を維持する戦略だった。

 平泉政権のこのような性格をきちんと押さえておく必要があろう。

(ISBN978-4-634-54823-7 C1321 \800E 2011,5 山川出版社 2013,9,9 読了)