秩父事件と甲午農民戦争の両方を体験した人物がいたという想定で書かれた歴史小説。
二つの民衆蜂起の間には、10年の間隔があるが、共通する部分も大きいと思われる。
秩父事件に関する記述は、基本的に調べが足りず、お粗末と言わざるを得ない。
いくら小説とはいえ、秩父事件ほどに調べられている歴史上の事件をとりあげるからには、それなりの調べをしてほしい。
作品は、秩父事件を戦った人物の一人が、朝鮮名を名乗って甲午農民戦争に参加するという筋立てで展開する。
フィクションとしては、それも、あり得るかもしれない。
しかし、それは19世紀末の東アジア情勢を、甘く見すぎてはいないか。
日本の自由民権運動は、国権主義的で、他民族を軽視する思想を内部に持っていた。
秩父事件の中で国権主義が語られたという史料が存在するわけではないが、自由民権思想を理解していた幹部たちには、国権主義や民族主義がない混ぜになった素朴なナショナリズムが存在したのではないかと思っている。
ナショナリズムについて最も深く考えていたと思われる中江兆民でさえ、明確な立場というものを持ち合わせることはできなかった。
秩父の戦いと朝鮮の戦いが連帯できる基盤は、存在できなかったと思う。
ありえない想定のフィクションだが、本書が想像するような事態が現実に存在すれば、東アジアの歴史は、もっと鮮やかだっただろう。