秩父事件のあとを時系列でたどった紀行文。
いきなりで申し訳ないが、読むだけ時間の無駄というほかない。
おそらくコストを省くためにそうなったと思われるが、タイプミスが多く、まともに校正したとは思えない。
「である」体と「ですます」体が混在しているなど、子どもの作文でも、これほどひどくはない。
内容を云々する以前に、こんなに水準の低いものを商品として売っていいのかという気がする。
内容面でも、半知半解な文章が書き散らしてあるだけで、新知見は何もない上、秩父事件に関する理解を混乱させるような記述が多い。
本書について言うべきことは、以上に尽きるが、タイトルの「おそれながら天朝様に敵対するから加勢しろ」について、付言しておく。
この言葉は、11月2日に(風布村の重立ちの誰かが)「恐れながら天朝様に敵対するから加勢をしなければ切る」と述べたという風布村の坂本儀右衛門の供述調書の中にある。
儀右衛門はそれを述べた人物として、大野福次郎・大野苗吉・石田造酒八の三名をあげているが、誰と特定はしていないが、福次郎は10月31日の時点で逮捕されているので、彼でないことは確実である。
「駆り出し」の際に、「天朝様に敵対するから・・・」という言葉が発せられたところに、秩父事件の歴史的な意味を見てとることができる。
ところが、本書を含め、「恐れながら」という接頭辞が11月2日の風布村で語られたように解説した本が、少なくない。
「駆り出し」の現場で発せられたのは「天朝様に敵対するから・・・」の部分であり、「恐れながら」は、田中千弥によれば、被疑者を縛り上げて樫の棒で二擲三擲してからおもむろに尋問を開始したという警察官に対し、坂本儀右衛門が述べた「天朝様」への接頭辞である。
事実、第一回目の取り調べから11日後に行われた第二回目の取り調べで、儀右衛門は、「ただ天朝様へ敵対するから鉄砲を持ち大宮の方へ出ろ」と言われたと述べている。
「恐れながら」は、自己を卑小化するための定型的な接頭辞であり、江戸時代を通じて、民衆が公儀や領主に差し出す願書には必ず冒頭につけられた。
明治になっても、民衆が権力に対して「公儀」「天朝」など、江戸時代の空気を吸った人物が「お上」を意味する語を発する際に付言することは、十分にありえた(儀右衛門は事件当時52歳である)。
拷問のさなかという状況の中で、儀右衛門が「恐れながら・・・」と述べたのは、そのような文脈の中でのことだった。
狩り出しの現場で、風布村の某は、「天朝に敵対しよう」と呼びかけた。
これから生命を賭して戦おうとする相手に対し、「恐れながら・・・」と自己を卑小化するはずがない。
秩父事件が、国家転覆を企図していたかどうかという点については、明確な定説は得られていない。
だが秩父困民党のアクティブたちが、明治政府のイデオロギー支配から抜け出ていたとすれば、なおのこと、「恐れながら・・・」などと言うはずがない。
風布村で叫ばれたのは「天朝様に敵対するから鉄砲を持ち大宮の方に出ろ」であり、「恐れながら」は、取り調べにあたった警官に対し坂本儀右衛門が付言した接頭辞だというのが、私の考えである。
ちなみに、上記の私見もまた、定説化には至っていない。