小山修三・岡田康博『縄文時代の商人たち』

 三内丸山遺跡の発掘によって、列島の縄文時代とはどういう時代だったのかを論じた対談録。

 対談者たちは、三内丸山とは、糸魚川から陸奥湾にかけての海上交易圏における、物流センター的な存在だったと述べられている。

 このことは、和田峠が、東日本全体を市場にした打製石器の生産拠点だっという事実とともに、縄文時代像を一新する事態だといえる。

 縄文時代とは採集経済であり、人々は終日、食べるものを求めて歩き回っていたのであり、食べるものがなくなれば全滅したから、文化は継承され難く、したがって進歩のない時代だったというのが、かなり以前の定説だったように思う。

 発展史観では、農耕・牧畜の開始は人類史の一大画期だとされるのだが、縄文時代の農耕については、ずいぶん以前から実証されており、縄文から弥生への転換は、必ずしも「発展」ではなかったことになる。
 本書末尾で論じられているように、列島東北部が、北海道のように、コメを必要としない縄文国として成熟する可能性を秘めていたのであり、事実、奥州藤原氏までは、米作りをする弥生国に対して、独立性を維持し続けていたのである。

 コメの生産力は社会を一気に変貌させるほどに革命的だったが、列島東北部の民は、コメよりむしろ、豊凶差の少ない雑穀を主食とし、交易によって利を得てもいた。
 三内丸山の人々は、そうした東北人の原型だったといえる。

 いずれにしても列島の人々が、小集団で孤立的にその日暮らしを営む縄文文化から、水稲耕作と金属器を使う弥生文化へと全体的に移行していったというような物語は、もはや成立しない。

(ISBN4-89691-477-5 C0221 \690E 2000,8 洋泉社新書 2013,8,31 読了)