早野透『田中角栄と「戦後」の精神』

 田中角栄の選挙区だった旧新潟三区の各自治体で、越山会がどのような人々によって、またどのような形で作られていったかを追ったルポ。



 旧新潟三区は、長岡市の都市部、長岡周辺の平野部、その周囲の広大な山間部からなる。

 田中の権力基盤の出発点は、平野部と山間部だった。

 田中は、近代以降形成されてきた保守勢力とは一線を画し、彼らに対抗する形で地盤を築いていったようである。
 政治家田中角栄を育てたのは、都市の企業家や大地主のような富裕層ではなく、活動的な農山村のリーダーたちだった。

 「日本」の近代は、山村や農村を踏み台にし、都市とともに成長した。
 「近代的」とは、「都会的」と同義語だった。
 そんな中で、山村や農村は、どうすれば存続・繁栄できるのか。

 権力内部に、農山村を繁栄させるという思想は存在しなかったから、かような考えは当然、反権力的たらざるを得なかった。
 新潟県が日農=社会党の一大票田だったことと、保守政治家と目されている田中の票田だったことは、全く矛盾しない。
 田中は、保守の発想から、農山村問題に対する答えを出そうとしていたからである。

 田中角栄礼讃者たちが彼に惹かれるのは、都市に農山村を対置し、農山村の繁栄なしに「日本」の繁栄はないということを、彼が一貫して熱く語り続けたからである。

 しかし、田中政治は、都市と農山村の関係を根本的に構築しなおそうというものではなかった。
 だから、田中のもたらすものはせいぜい公共事業であり、それは一時的に雇用をもたらしたが、結果的には、公共事業なしに生きていけない農山村の経済構造を作り出してしまった。

 高度成長が止まっても、公共事業なしに生きられない村が生きていくには、借金してでも国費を地域に注ぎこむしかなかった。
 それが現在、「日本」の財政危機の遠因となっているのは、周知のことである。

 田中のもたらす公共事業が「陳情」というスイッチによって機能したことは、政治の質を低下させたし、企業からの献金より自ら稼ぎ出すカネを資金にしようとした田中は、「金脈」批判によって、徹底的な批判を受けることになった。

 田中角栄は、いろんな意味で、「日本」の形を考えるヒントを与えてくれる政治家だった。

(ISBN4-02-261071-9 C0131 \680E 1995,2 朝日文庫 2012,5,7 読了)