斎藤貴男『ルポ・改憲潮流』

 1990年代以降、改憲をめざす権力側の動きが本格化している現実に警鐘を鳴らす書。

 著者によれば、改憲勢力が狙うポイントは、憲法第9条第2項であるらしい。

 ここには、交戦権の否定が定められている。

 自衛隊は存在するし、自衛のための戦闘は認められるという法解釈がなされているとはいえ、他国により明白な侵略がなされでもしない限り、戦闘のため「日本」から出撃することは、どうやったってできなくなっているのである。

 自衛隊が朝鮮戦争・ベトナム戦争・アフガンやイラクでの戦争に参戦できなかったのは、この項目が決定的な歯止めになっていたからである。

 アメリカにとって、基本的には従僕のように従順な「日本」が、アメリカのために血を流さないのは苛立たしいことだろうが、憲法の規定とあっては、いかんともしがたいのである。

 戦前とは異なり、現在の「日本」が単独で、他国を侵略しようとしているわけではない。
 「日本」を戦争に駆り立てたがっているのは、アメリカである。
 やや踏み込んで言えば、アメリカを支配している大資本が、戦争に際してのアメリカ国民の人的・経済的負担を軽減するために、それを「日本」に転嫁したがっているということである。

 戦争に走りたがる資本とは、直接的には軍需産業であるが、現代の軍需産業には、かつてのような兵器産業だけではなく、運輸・ソフトウェア・化学・製薬・通信など、あらゆる分野の企業が含まれる。
 戦争は、国家予算を無限に引き出すことのできる、大イベントなのだが、人的・経済的消耗の度が過ぎると、国民から反発される。
 だから、「日本」にやらせたいのである。

 しかし、戦争を行うことで利益をあげうる企業だけが戦争に走るのではない。
 世界のどこかの閉鎖的な市場を、武力を使って自由化することによって、アメリカの多くの企業が新たな市場を獲得できる。
 アメリカにとっての戦争はやはり、市場獲得のための戦いなのである。

 一方、「日本」がアメリカの戦争に国民の生命とカネを提供するメリットは何か。
 アメリカにルーツを持つ多国籍企業の多くは、「日本」を含め、各国に現地法人や子会社を持っている。
 「日本」の多くの企業もまた、アメリカの多国籍企業と資本提携関係にあり、その共通する合言葉は「グローバル化」である。

 これらの企業にとって、「国家」はほとんど無意味な概念である。
 これらの企業にとって、株主に利益をもたらす経営が善でありまた正義でもあり、その逆が悪である。
 従って、彼らにとって「国家」もまた手段の一つにすぎない。

 石原慎太郎や安倍晋三らが「国家」に至高の価値を見ようとしているのは、論理矛盾のようでもある。
 このような政治屋は、「国民」に号令する快感を味わうことさえできれば、論理矛盾していようがなんだろうが、その他のことはなどどうでもよいと思っているのだろう。

 こういう路線に従って着々と準備している官僚・シンクタンクの動きには、ひとつひとつ反撃していくべきではなかろうか。

(ISBN4-00-431014-8 C0236 \740E 2006,5 岩波新書 2012,8,3 読了)