森浩一『山野河海の列島史』

 日本史というコトバの嘘っぽさが見えすぎてきたので、最近は列島史というコトバを使うようにしている。
 このコトバは自分の感覚に比較的フィットしている感じで使っている。

 この本の記述の中心は、蝦夷・隼人・熊襲と呼ばれた人々の実態についてである。

 歴史家は、記録は一部の支配者によって残されるという大前提で史料を読むのだが、ない記録に接することができない以上、歴史家の視野には、一部の支配者のまわりの状況しか入ってこない。
 歴史家が描くのは、かくも狭隘なレンズを通した世界でしかないのだが、それに「日本史」という看板をかけるから、列島の隅々にまで、畿内支配者の権力が行き渡っていたかのような幻想が生じる。

 国家を自明の前提として考えがちな近代人の幻想史観から自由であるためには、歴史家が、史料の持つ限界性を十分に自覚してかからなければならないと思う。

 古代畿内政権の権力はおそらく、一般に思われているほど、普遍的ではないだろう。
 例えば武蔵国に「中央」から官人が赴任した事実があったにせよ、「中央」が武蔵一国をあまねく支配できていたことを意味するとは、限らない。
 戸籍が作成されたという記録は存在するが、戸籍がすべての列島民を把握するものであったはずはなく、それらしきものが作られはしたが、実態は不明というほかない。
 そもそも、膨大なデータを馬の背に乗せて「中央」に集中・集計できたなどと、考える方がおかしい。

 列島の北と南(及び山間部)は、畿内政権の権力の及ばない一帯だったから、ここの制圧のための施策は、記録に残る。

 手段は武力行使と懐柔、そして強制移住だったようだ。
 本書によれば、秩父地方に近い、上野国緑野郡・多胡郡・碓氷郡に「俘囚」が移住させられている。

 平安初期に、俘囚は各地で反乱を起こしている。
 西上州における反乱の記録はないが、近くの城峰山には、平将門伝説がある。
 蝦夷たちが移住先でなお、まつろわぬことはあったはずだし、ことによると山の中に、東北の故地へ至る隠し道があったかもしれない。
 俘囚にとって、移住は気の進まないことであっただろうが、移住することで余計な摩擦を生じなくてもよいならば、しぶしぶ移住に応じたというようなこともあったかも知れない。
 ともかく、蝦夷側の事情は記録されていない。

 地方政権の一つであるヤマト政権としては、権力基盤を少しでも安定させたいと考えて、まつろわぬ東北の民の人的分断を図ったのだろう。

 一方、九州南部の熊襲(肥後・日向・大隅一帯の軍事的集合体)と隼人(大隅・薩摩の臨海軍事集団)も、容易なことではヤマト政権に屈しなかった。
 ヤマトは、彼らの軍事力を取り込むために、リーダー格を畿内に呼び寄せ、軍事力の一端を担わせた。
 リーダーが畿内に出向いたのには、何かの理由があるのだろう。
 いずれにしても、ヤマト政権と一体化するからには、熊襲・隼人の側にも事情があったのだろうが、そちらの論理は記録されていないから、不明である。

 テキストは容易に偽造・廃棄できるが、モノを隠蔽しきることはできない。
 記録に依存せず、モノをていねいに調べることによって、実態により近づくことができそうだ。

(ISBN978-4-02-259846-2 C0321 \1100E 2004,2 朝日新聞出版 2011,6,6 読了)

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