新潟日報社『入門田中角栄』

 田中角栄の語録と略伝。

 戦後の政治史における田中角栄とは何だったのかを、きちんと評価する必要を感じている。

 地域社会の田中的構造が形成されたのは高度成長期だっただろう。

 しかし、高度成長が挫折したあとも、田中は『日本列島改造論』を掲げ、列島経済・社会の構造的改革を求め続けた。

 明治以降の列島の構造は、工業拠点・人口・情報・権力を太平洋ベルト地帯へ集約し、産業全体の分業化=合理化を進めるというものだった。
 軍事力が経済力に比例していた時代に、国全体の経済成長は、軍事面での充実を担保するものだった。
 「富国」が「強兵」の前提だったのである。
 産業配置の合理化もまた、「強兵」に欠かすことができなかった。

 過大な軍事力を必要としなくなった戦後に、経済成長自体が至高の価値となったものの、明治以来の産業配置の大枠は維持された。
 経済的拡大が加速する中で、列島の民が蓄積してきた知恵や技術や地域社会そのものが破壊されていった。

 『日本列島改造論』が登場したのは、高度成長が破綻する直前だった。
 大蔵大臣や通産大臣を歴任した田中が、1972年以降の経済的見通しを持っていなかったとは考えにくいが、彼の立論は、経済成長が継続する全体で書かれていると思われる。

 経済の成長についての見通しが甘い反面、明治以来の歪んだ産業配置や地域社会の崩壊に対する田中の感覚は、他の政治家よりはるかに鋭い。

 「都会並みに農山漁村の生活向上を図る。それが愛の政治だ」
 「過密と過疎は楯の両面であり、都市改造と地方開発は今や同義語である」
 「親・子・孫が生まれ故郷を捨てず、住むことができるようにするのが政治の基本だ」
 「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代になる」
 「農村は民族の苗代であり、魂の安息所でもあります」

 田中は、エリートだった池田勇人に「車夫馬丁のたぐい」と評された。
 上の田中語録は、普通の政治家が持たない彼の生活感覚によって吐かれただけであり、田中本人のよって立つところは所詮、戦後保守政治の枠を出るものではなかったと考えるべきなのか。
 それとも、戦後の保守政治の中で、一種異彩を放つものと評価すべきか。

 もう少し、よく考えてみたい。

(ISBN4-86132-015-1 C0031 \1600E 2003,12 新潟日報事業社 2012,1,23 読了)