城山三郎『大義の末』

 「(天皇制という)大義に生きる」という確信のもとで人間形成してきた若者が、戦後、どのようにして思想的清算をとげたかを描いた作品。

 天皇制に歴史的な根拠は何もないから、それを意味あるものとみるのは、一種の信仰である。

 この列島では、「日本」という「国家」が、あたかも実体を持つ存在であるかのような偽装がなされている。

 教育は本来、自分とは何かという問いに対し、各自が解答を示せるようになるための社会的援助というようなものであったはずだが、今は、偽装「国家」という幻想を「国民」に刷り込む営為に堕している。

 具体的に言えば、教育の現場できちんと組織されるべきは、子どもたちの発達段階に即して知的・社会的な体験を積ませるという営為である。
 しかし、多くの親たちは、子どもたちを学歴取得や資格取得などに走らせ、競争に勝って少しでも上位ヒエラルヒーに食い込むように望んだ。

 競争といい、ヒエラルヒーといい、これらすべては、「国家」の存在を前提とする幻想に過ぎない。
 「国民」はこうして、自ら「国家」という縄に自縛されていった。

 戦前には、天皇制という粗雑な形で、国家偽装がはかられた。
 なぜ粗雑かといえば、それが「社会主義国」同様に、あまりに荒唐無稽だからである。
 がともかく、「国民」は、天皇制を信仰すべくマインドコントロールされた。

 戦後の教育において、マインドコントロールされない人間を育てるという観点が、あまり重視されなかったのは、手抜かりだったと言わざるをえない。
 教育だけでない。
 学生自治会や学生運動の中でも、なによりもまずは自分で考え自分で正しいと思ったように行動するということが基本でなければならなかったはずだが、思想の内実より看板が重視されていたような気がする。

 強要されたにせよ、いったん信仰した教義が原因で故なく死を強いられたりする現実を前にすれば、その嘘が見えもする。
 しかし、信仰の清算は、さほど簡単でない。

 昨日までの軍国主義者が、思想的精算なしにいきなり民主主義者に生まれ変わるという事例は多かったらしいが、そんな器用さなど持ちあわせていない人間のほうがマトモである。

 「君が代」という歌がある。
 本書の中にも、この歌が歌われる場面がしばしば登場する。

 はっきり言って、この歌に思想的な問題性など、何もない。
 この歌は、打算のみに生きる人々が自己保身や出世や金儲けのために、他人に強制する歌だということが、本書に象徴的に描かれており、それが時節柄、印象に残った。

(ISBN978-4-04-131008-3 C1193 \514E 1975,8 新潮文庫 2012,3,20 読了)