宮台真司・飯田哲也『原発社会からの離脱』

 現在の「日本」のエネルギーの一定部分が原発によって作られていることは、事実である。

 原発から撤退するためには、エネルギー消費を減らさなければならない。

 代替エネルギーを開発することによって、エネルギー使用を抑える必要はないという意見もあるが、火力発電や水力発電にも重大な欠陥があることを忘れてはいけない。

 1960年代から1970年代には、科学の進歩=人類の進歩は善であると思われていた。歴史における「発展」の概念は有効だと思われていた。少なくとも自分は、そう考えていた。
 マルクス主義の立場からする、歴史における「発展」の概念に疑義を見たのは、芝田進午氏の講演か著書においてだった。

 増大する生産力は、旧来の生産関係との矛盾を激化させ、社会構成体の根本的変容(革命)によって止揚される。生産力の増大は、不可避であり、必然である、というのが、史的唯物論の基本的理解である。
 しかしこのころ芝田氏は、核全面戦争によって人類が滅亡する事態になれば、生産力の増大も歴史の「発展」もありえないのだから、史的唯物論の有効性は、核戦争が起きないという条件が満たされる限りにおいてだと述べられた。

 芝田氏の議論は、至極もっともであり、史的唯物論が無条件で有効というわけでないという見方は新鮮だったが、当時の自分には、この問題を哲学的に深化させて考える余裕はなかった。

 1980年代以降、歴史の「進歩」を懐疑する見方に説得力が出てきた。

 いわゆる「公害」は落ち着きつつあったが、生活廃棄物処理や自動車の排ガス問題など、一般市民に起因する環境破壊が、問題になってきた。
 排ガスの問題については、地球温暖化という形でドラスティックに問題化され、1990年代には、個々の人間が何らかのアクションを起こすべきだという考えが一般化した。
 地球環境を破壊しているのは、「大企業」だけではなく、一般市民にも重大な責任があるということが、わかってきたからである。
 資本は悪であり、市民は善であるというステロタイプで、問題を解決することなどできないことが、明らかになった。

 本書で宮台真司氏は、社会学の立場から、「日本」の社会が、原発に依存しなければならなくなってきた背景について、詳細に分析している。
 うなづける点が多いが、「日本」で、「知」の力が脆弱だということに問題の原因を転嫁してはいけないと思う。
 それをもっと深く分析するには、ことによると、史的唯物論が有効かもしれない。

 飯田哲也氏は、原子力の元専門家として、原子力を批判するだけでなく、自然エネルギーを作り使うネットワークを組織するなどの実践されている。
 自然エネルギーへの転換は、個人でやるより地域で取り組んだ方が、効率的だし効果も大きい。
 しかし、そのような意識はまだ、一般的でない。
 まずは個人が、一歩を踏み出すことが必要なのではなかろうか。

(ISBN978-4-06-288122-81 C0254 \760E 2011,6 講談社現代新書 2011,8,5 読了)