石川日出志『農耕社会の成立』

 考古学の知見によりながら、縄文時代から弥生時代への、列島における社会変容を描いた書。

 本書によれば、約1万年以前の気候温暖化以降、列島は縄文時代に入り、弓矢・磨製石器・縄文土器の使用が開始されたという教科書的な理解では、列島におけるその時代を一面化して把握することになる。

 縄文時代とは、温暖化に伴って列島に展開した、多様で新たな生態系に対応した、合理的な生活の仕方であって、地域により個性的であり、ヒスイや黒曜石(無論それら以外の各種産物も)などが、主として海を介した地域ネットワークによって交易されていた。

 「縄文時代とはこういう時代だった」という捉え方自体が、縄文時代から「日本」が存在したかのように歴史を偽造する発想を含意している。
 列島が一色でなかったのだから、先島・琉球列島・朝鮮半島・サハリンや沿海州を含んだ東アジア世界の中で、個々の地域的特徴を押さえる必要がある。

 北海道と琉球・先島には弥生文化が存在しないのだから、弥生文化とは、列島の一部に生起した現象である。
 縄文人が列島の先住民で、弥生人が大陸からの移住民であるという論もまた、列島を一括りにして論じたがる近代「日本人」特有の偏見でしかない。

 弥生文化もまた、列島における多様な環境に有効な範囲内で、稲作という新たな知見が取り入れられたものである。
 津軽平野に弥生時代の集落跡が存在するからといって、本州の北端までがのっぺりと弥生文化に覆われたわけではなく、そこが偶然、稲作可能な環境だったからに過ぎず、稲作に労働力を投下するより合理的な暮らしが可能な地域では、相変わらず稲作は行われなかった。

 従って、多様な環境下で、より合理的に暮らすという列島民のスタンスは、縄文時代とまったく変わっていない。
 変化したとすれば、物流ネットワークがより広域化した(そしておそらく強力になった)ことで、琉球産の貝製腕輪が、北海道の続縄文人にまで届けられている。

 国家形成に向けた動きも、考古学的研究によりかなり鮮明になってきたようだ。

 銅鐸を使った祭祀は、豊作を祈願した農耕儀礼だったという。
 ことさら豪華な副葬品を北九州以外では伴わないことから、祭祀を主導したリーダーは特権階層でなかったようだ。
 中国地方で銅鐸祭祀が急速に衰退すると、各種墳丘墓が築造され、特権階層が形成されて、巨大古墳の時代を準備する。

 考古学の知見は精緻で、物的証拠の蓄積によって社会変化を帰納する。
 興味深いとはいえ、一編の伝聞記にすぎない「魏志倭人伝」の記述に振り回される必要はないと思われる。

(ISBN978-4-00-431271-0 C0221 \800E 2010,10 岩波新書 2013,9,23 読了)