鶴見良行『東南アジアを知る』

 『バナナと日本人』の著者による、学問の方法を述べた連続講義。

 著者の学問は、演繹的方法を徹底的に排し、歩き、聞き、見ることによって組み立てられる。

 使い捨てられる「人材」を「生産」するのでなく、若い人が現実を見抜く目を鍛えることを目的とするならば、大学でも、あるいは高校でも、こういったやり方が教えられるべきたろう。(残念ながら現在の教育は、いかに効率的に多くのことを「ウノミ」にするかに重点がおかれている)

 学問はもちろん、伝達されることによって意味を持つ。
 教育現場でよく使われる表現でいうなら、学問の「切り口」は、身近だったり意外ななものだったりしたほうがよい。
 かくて著者が目をつけた「切り口」が、バナナであり、エビであり、マングローブであり、ナマコであった。
 教師の語りが「お経」になるか、生きた「知」になるかは、どのような「切り口」を使うかによって決まることが多く、なるほどと感じることが少なくない。

 著者はまた、文書資料に依存することも排している。
 これだと、歴史研究などにとってはきついのだが、歴史研究が文書に依存せざるを得ない以上、それ自体が非常に限界のある学問だということを自覚しなければならないと受け止めた。

 このような方法によって東南アジアを見るから、「国家を建設した社会を歴史上の進歩、そうでない社会を歴史の遅れとして考えてはなりません」とか、「植民地にされた社会が独立解放の結果、国家の位置を獲得したことに対して、やや極端な見方ですが、国家にされてしまったというふうに見ることができます」などのような目からウロコ的な指摘が、さりげなく散りばめられるのだろう。

 この著者もまた、宮本常一氏らと同じく、「語り」の魅力的な人である。

(ISBN4-00-430417-2 C0236 P650E 1995,11 岩波新書 2014,8,26 読了)