本多勝一『「戸が締まります、お気をつけ下さい」』

 西暦2000年前後に書かれたと思われる雑文集。

 テーマがない本なので、タイトルと内容にはほとんど関係がない。

 著者のこのシリーズはこういうものと了解して読んでいるので違和感はないが、不親切な本ではある。



 読み応えのあるのは、主たるテーマは、ホロコースト否定論と公共事業と長野県知事選挙に関する数編である。

 ホロコースト否定論(以下「否定論」という)についての議論は、思想としての否定論自体の正当性をめぐる問題と、否定論を載せた雑誌の廃刊をめぐる問題が、(世間においては)区別されないまま議論されている感がある。

 著者らは、否定論の執筆者N氏(なぜイニシャルで記載されているのか不明)が提起した訴訟の中で否定論を論破し、ホロコーストの不存在という事実がなかったことを実証した。
 問題は、これで落着したはずである。

 しかし否定論に対し、アメリカのユダヤ人団体による抗議や、発行元に対する広告引きあげなどの圧力がかかり、雑誌が廃刊となって編集長が解任されるという事態は、ホロコーストの存在に関する議論がタブーになっているかのような印象を与える。

 2012年3月現在、名古屋市長の「南京大虐殺はなかった」発言をめぐる状況が連日、報道されている。
 『産経』などは、中国側や日本の歴史家による抗議・批判は的外れという報道で一貫しているし、石原慎太郎なども「我が意を得たり」とばかりに、大いにはしゃいでいる。

 この問題についても、歴史学的にはほぼ決着がついているにもかかわらず、「国民」の歴史認識においては、どちらとも言えない状態が続いている。
 名古屋市長は、「自分の父親が戦後、南京を訪れたときに歓迎された-(A)」という事実を根拠として、「南京大虐殺はなかった-(B)」という結論を断定しているのだが、論理的にものを考えることができる人なら、(A)が(B)を証明する根拠たりえていないことぐらい、すぐにわかるはずである。

 石原慎太郎が思いつき的に、レベルの低いことを口走るのもそうだが、こういう発言は、明白な事実の信憑性をなんとなく疑わせるのに、効果がある。

 ホロコースト否定論も同じで、歴史学的に根拠が薄弱であっても、そのような議論が、多くの目に触れるというだけで、決着のついた学説を疑わせることになる。

 どんな学説であっても、100パーセント正しいということはないから、議論の余地は残る。
 そこでは、自由に疑うことができ、自由に議論ができなければならない。
 学問の自由や言論の自由は重要である。

 しかし、明明白白な史実に対し、情緒的な疑念を繰り返し表明することによって、事実上その改ざんを図ることを目的にした言説に対しては、きちんと批判していく必要があろう。

 ホロコーストについても、タブーを設けずに議論し、その実態を明らかにすべきだと思う。

(ISBN978-4-906605-69-9 C0036 \1300E 2010,8 金曜日 2012,3,6 読了)