金塚貞文訳『共産主義者宣言』

 かつて『共産党宣言』というタイトルで出版されていたパンフレットの新訳本。

 マルクスによって書かれたものの基本的精神を汲みあげようとして訳されたとある。

 よく読まれてきた岩波文庫版や国民文庫版との細かな相違については関心がないので、マルクスが資本主義経済をどのように告発しているかを最確認するために読んだ。

 結論的に言って、資本主義経済を糾弾するマルクスの議論は本質的で、妥協がなく、あたかも21世紀の世界を見通しているかのようだ。

 つまりは、労働の不快さが増すのに応じて、賃金は下がるということになる。そればかりか、機械化や分業が進むにつれて、労働時間の延長によるにせよ、一定時間内に要求される労働の増加や、機械のスピードアップによるにせよ、労働の量も増加する。

 社会主義の崩壊以降、資本はいよいよ、その本質をあからさまにし始めた。

 時あたかも、コンピュータとネットワークが、労働のツールとして一般化し、それらを駆使できぬ労働者は駆逐された。
 産業革命によって熟練労働が機械によって担当されるようになったのと同じように、知的労働もまた、人間に代わってこれらのツールが担当するようになった。
 人間は、プログラム通りにすべてが進むよう、すべてを段取りすることが中心となった。

 資本は、自己増殖という本能に基づき、賃金その他のコストを、極限までカットさせようとする。

 労働時間は事実上、無制限となった。
 社会主義と対決するためにやむなく設定されていた「福祉」は、治安対策以外の目的では必要とされなくなり、際限なくカットされることになりつつある。

 マルクスは、「労働者にかかる費用といえば、たかだか、かれが生計を維持し、かれの種族を繁殖させるのに必要な生活手段くらいのものにすぎない」と述べているが、現在の賃金では、「かれの種族を繁殖させるのに必要な生活手段」を贖うことさえできない。

 ブルジョア階級は、世界市場の開拓を通して、あらゆる国々の生産と消費を国籍を越えたものとした。反動派の悲嘆を尻目に、ブルジョア階級は、産業の足元から民族的土台を切り崩していった。民族的な伝統産業は破壊され、なお日に日に破壊されている。それらの産業は新しい産業に駆逐され、この新たな産業の導入がすべての文明国民の死活問題となる。そうした産業はもはや国内産の原料ではなく、きわめて遠く離れた地域に産する原料を加工し、そしてその製品は、自国内においてばかりでなく、同時に世界のいたるところで消費される。国内の生産物で満足していた昔の欲望に代わって、遠く離れた国や風土の生産物によってしか満たされない新しい欲望が生まれる。かつての地方的、一国的な自給自足に代わって、諸国民相互の全面的な交易、全面的な依存が現れる。そして、物資的生産におけると同じことが、精神的な生産にも起こる。個々の民族の精神的な生産物は共同の財産となる。

 「日本」国内の党派はしばしば、「アメリカは・・・」という言い方をする。
 「アメリカ」とはなにか。

 アメリカに主たる拠点を持つ特定の資本が、「アメリカ」の本体なのだろうと思われる。
 「日本」に主たる拠点を持つ資本は、「アメリカ」の資本に従属的な関係を構築することで、自らの本能たる自己増殖が可能になると考えているらしい。

 それらの資本は、本質的にナショナルな性格を有していないのだが、国境を越えた資本の増殖は、通常、国家という幻想をまとって行われる。
 従って「日本」のナショナリズムは、「アメリカ」に従属的であって初めて正常に機能する。
 「日本」のナショナリズムを純化する思想的試みは、資本の論理と矛盾するから、おそらく成功しない。

 「日の丸「君が代」も、思想的に純化すればいずれ、資本の論理と整合しなくなる。
 「日の丸「君が代」の役目は、教師を奴隷化し、「国民」を馴化させることに尽きる。

 世界がマルクスが述べたような形でグローバル化されるかどうかは、多様で多層な人間のつながりが多国籍資本をどれだけ包囲できるかにかかっていると思われる。

(ISBN978-4-582-76766-7 C0330 \1000E 2012,7 平凡社文庫 2012,8,28 読了)