斉藤洋一『身分差別社会の現実』

 列島における賤民身分に関する研究の到達点をわかりやすく解説した書。

 本書のテーマは賤民身分の起源や実態についてだが、身分制度そのものについての記述も参考になる。

 江戸時代に「士農工商」という身分序列が存在したといわれるが、典拠はない。

 さらに、「職人」や「商人」という身分も存在せず、存在した身分は、「百姓」・「町人」である。

 そして、「百姓」と「町人」にはっきりした上下関係はなく、身分移動も行われていた。

 以下は本書に直接関係ないが、本書を読むことによって大いに触発されたことなので、備忘のために記しておく。

 「百姓」は身分をあらわす範疇であって、職業(生業)をあらわすものではない。
 「百姓」とは、村に在住する人々のうち、賤民以外の身分に属する人々を包含する範疇である。
 従って、「百姓」身分に属する人々は、字義のとおり、あらゆる生業に従事していたのである。

 「農民」という概念が一般化したのは、明治以降である。
 戸籍には、「平民 農」などと記載され、その人物の身分と主たる生業がプロファイルされた。
 支配者にとって、村に在住する人々の多くが多かれ少なかれ、農作業に従事していたから、「農を生業とする民」という意味で「農民」と呼んだものと思われる。

 農作業=食べ物を生産する行為は、都市に住む人々(江戸時代であればサムライと町人)をのぞけば、人間であれば誰もが営む、基本的な行為だった。(江戸時代の被差別民も多くは農作業に従事していた)
 食べ物生産には、農作業だけでなく、漁労や狩猟・牧畜・山野における食糧採取などの行為も含まれる。
 他の生き物と同じく、人間もまずは、食を得るために生きなければならなかったのであり、食を生産しない都市は、村があってはじめて成立し得た。

 近代化にともなって、社会的分業が進み、農作業は、職業の一つとして「農業」と称されるようになった。
 社会的分業とは、経済合理主義の所産である。

 分業化は、職業としての「農業」を成立させただけでは終わらない。
 食を得るための「農」行為においては、多様な種・品種を作付ける必要がある。
 最も危険なのは、壊滅的な被害を被ることであり、病害や天候不順による多少の被害は、想定内と考えればよい。

 しかし、経済合理主義は、「農業」におけるモノカルチュア化を迫る。
 モノカルチュア化は、ザラにあり得る病害・天候不良・経済状況の悪化によって壊滅的な被害を受けやすく、いったんコトが起きれば、暮らしの基盤は根本から破壊される。

 だから、食を得るための営為だった「農」が「農業」になると、自然のリスクと経済のリスクを背負い込むことになる。

 明治以降「農業」の用語に、列島民の耳が慣れていく。
 「農」の職業化という現実に、疑問を持つことは少なくなった。

 高度成長期以降は、「専業農家」や「兼業農家」というカテゴリーが作られ、「専業」が純粋な農業者で、「兼業」は「農業」以外の収入を求める中途半端な存在であるかのような言い方がされるようになった。

 法的にも、「専業」以外の農業者を田畑から締め出す制度が整備されたが、「専業」は経済合理主義の極地でなければ存立しえず、モノカルチュア化を徹底しなければならない。

 これらすべては、生き物としての人間のあり方に著しく反している。
 「農業」を否定する理論を構築してみたい。

(ISBN4-06-149258-6 C0221 \700E 1995,7 講談社現代新書 2012,2,7読了)