上野敏彦『千年を耕す』

 宮崎県椎葉村で焼畑を営んでいる人々を取材したルポ。

 「サス」のつく地名は、知ってる限りで「大指(オオザス)」「白井差(シライザス)」「藤指(フジザス)」などがある。

 また「ソリ」は、「中双里(ナカソウリ)」「小双里(コゾウリ)」「楚里(ソリ)」などがある。

 言葉が別なのだから、「サス」と「ソリ」とは異なった地形をさすと考えられるが、それらがどう違うのかは、もはやわからない。
 いずれしても、当地でも、広範囲に焼畑が行われていたのは明らかであり、列島全体でみれば、一部の平坦地をのぞけば、ほぼ至るところで焼畑が行われていたと言っても過言ではなかろう。

 焼畑で耕作される主な作物は、雑穀・豆類、及び芋類であるが、それらは列島の歴史において、主食もしくは主食に準じて食べられてきた食べ物である。
 列島民の主食がコメだったというのは誤解であって、コメを常食している人々も存在したが、多くは雑穀を食していた。

 コメは美味な食べ物だが、多くの人々が暮らしていた山間部でコメを生産することはできなかったし、当然ながら、コメを買い食いできるはずもなかった。

 山間部では棚田が作られていたではないかという人がいるかも知れない。

 棚田は、傾斜地の多い日本列島でコメを作るために列島民が作り出した、独特の風景である。
 斜面に石垣を築いて作られた棚田は、列島の人智とわざと自然環境が織りなした、最も人間的な景観だと思う。

 しかし、棚田を築くことのできる傾斜以上のところにも、人は暮らさねばならないし、暮らせるのである。
 当地もまた、そのような場所である。

 そこでは、谷側に正対して鍬を振り下ろし、崩れ落ちようとする土を人力で、少しずつ持ちあげるという「逆さ掘り」という耕耘法が必須だった。
 斜面の耕土は、人の力によって大地に貼りつけられていたのである。

 それでも、山の民が食べていけるだけの主食を自給するのは不可能だったのであり、残余(というか主食のほとんど)は、焼畑によって得られていたのではないかと思われる。

 焼畑は、農法としては粗放だが、肥料や集約的な労働を必要としない上、比較的短期に収穫に至ることができる作物がほとんどなので、鳥害や獣害を防ぐことができれば、そこそこの収穫を得ることができただろう。

 幕藩制時代の領主にとって生産力は、水田を基準としてしか、計測不可能だったから、山の民の領主への諸上納は、水田の民に比べればずいぶん緩やかだったから、食べていくことさえできれば、山間地は、暮らしやすいところだったはずだ。

 本書には、近代農政史において、焼畑がどのように扱われてきたかが、記されている。
 近代以降、雑穀生産なかでも焼畑農法は、生産性が低く、山林火災を招く危険性もあるためか、克服すべき農法とされたようだ。
 基本的には、焼畑の生産性の低さが、経済合理主義と相容れないことが大きな問題とされたのだろう。

 現在、熱帯雨林などで行われている、人口増に伴い自然林を伐採して作られる焼畑が、森林荒廃の原因となっているという指摘がある。
 その指摘はおそらく、正当だろう。
 生態系破壊を伴いながら営まれる焼畑と、列島で長らく行われていたような、循環式農法としての焼畑とでは、意味が異なる。

 日本列島の焼畑は、椎葉村以外ではほぼ消滅したらしい。
 この列島は、山岳列島であり、ここで暮らすということは、山岳地帯でいかに暮らすかということにほかならない。
 列島の民は、数千年の試行錯誤を通じて、山岳農耕のあらゆるノウハウを構築してきた。

 近代になって、何も考えずにそれを放擲したり、ダムに沈めているのだから、もう救われない。

(ISBN978-4-582-82456-8 C0061 \1800E 2011,1 平凡社 2012,3,1読了)