高橋慎一朗『武家の古都、鎌倉』

 『中世都市鎌倉を歩く』の類書だが、切り口が同じでないので、こちらも一読の価値はあった。

 鎌倉の核心は、将軍の住んだ「御所」を中心として、北条氏とその他の御家人たちの屋敷であるが、その周縁には、御家人に従属する所従たちが居住し、北条氏や有力御家人が造営した大寺院が各所に甍を競い、さらには商人や職人、中国から招かれた学僧までがひしめき合う、エネルギッシュな町だった。

 有力御家人が造営した寺院の中には、幕府の滅亡に伴ってパトロンを失い、廃滅したものも多いが、足利氏や後北条氏によって引き続き保護されたところは、今なお、威容を誇っている。

 その点がまさに、「武家の古都」すなわち歴代の東国武士政権の首都であった所以である。

 幕府成立以前から小都市だった鎌倉は、鎌倉幕府成立以降、民衆の集まる、東国有数の都市となった。
 日蓮や一遍、さらには浄土宗や律宗・禅宗の高僧が、ここに蝟集する民衆を対象として布教に訪れた。
 鎌倉は、仏教の最新理論が、ぶつかり合い、試されるイデオロギー闘争の場ともなった。

 鎌倉には、蘭渓道隆ら無学祖元のように、中国から来日した学僧も居住した。
 武士たちに帰依された禅宗系の大寺院は、中国人学僧によって指導されており、これらの寺院では日本語と中国語が飛び交う状態だったという。

 僧たち以外に、宋や元との貿易に携わる商人もいたから、この当時、列島最大の国際都市でもあり、海運を通じて、列島各地との人的・物的交流も大きかった。

 御家人たちの本拠地は列島の東半分に広く分布していたから、鎌倉を中心とする街道が整備された。
 上州の山間地で、鎌倉街道だといわれる道を見たことがある。
 登り下りを極力緩和するように山腹を通る、みごとな道だった。

 鎌倉は、東国政権の都にふさわしく、海路・陸路の両方から、日本人・外国人が集まり散じる町だったのである。

(ISBN4-634-54210-2 C1321 P800E 2005,8 山川出版社 2011,8,18 読了)