堀江邦夫『原発労働記』

 1970年代末に出版された本の修正復刊。

 美浜・福島第一・敦賀の三原発で働いた記録。

 当たり前のことだが、人間の作ったもので、壊れないものはない。

 原発は、かなり慎重に作られているのだが、部品や配管が複雑に絡まった巨大な機械の各パーツは、汚れたり経年劣化するから、清掃・交換したりしなければならない。

 炉心近くや一次冷却系のパーツは、放射能にひどく汚染されているのだが、メンテナンスはしなければならないから、放射能を浴びつつ、誰かがやるのである。

 これらの作業は、多くの放射能を浴びねばならず、身体に異常を来すことも多いだけでなく、暑かったり、埃がひどかったり、呼吸がしづらかったり、悪臭にさらされたりしなければならない。

 機械の所有者である電力会社の社員たちは、このような危険なメンテナンスにはほとんど、従事しない。
 これらに従事するのは、孫請け・曾孫請けなどの従業員で、手配師によって集められて、現場に送り込まれる。
 電力会社によって支払われる賃金は、元請け・孫請けによって中間搾取され、労働者の手元に来るころには、食っていけるかいけないか程度まで目減りする。
 手配師たちは、口を利くだけで、多額の手数料を得ることができるのである。

 それでも、地元にとって、原発雇用は必要にして、ありがたいらしい。
 福井の人は、「サカナがとれない以上、原発は必要だ」と言っている。

 こうした構造は、本書が書かれて30年以上たった現在、さらに顕在化している。

 原発労働は、現代日本の最底辺労働である。
 最底辺労働だというのは、ここで働く人びとを蔑視するからではない。

 原発労働を生み出す電力会社はじめ、原子力に巣くう人びとは、これら原発労働者を「貴い犠牲」に仕立て上げたいだろう。
 この人たちの献身によって、原発の安全が担保できるのだし、フクイチの危機は回避できているのだと。

 しかし、いくら美化されようと、放射能は確実に身体を蝕むし、いずれ放射線障害によって苦しまなければならなくなったところで、誰も保障など、してくれない。
 それが原発である。

(ISBN978-4-06-277000-2 C0195 P648E 2011,5 講談社文庫 2013,7,23 読了)