小関智弘『春は鉄までが匂った』

 再読本。

 最初に読んだのは、学生時代だったから、鉄色の表紙の晩聲社版だった。

 おおむね同時期に刊行された『粋な旋盤工』を、先に読んだように記憶する。

 町工場における、ものづくりの現場ルポを、どうして何冊も読んでみようと思ったのかは、忘れてしまった。

 本書に登場する機械がどのようなものなのか、今もよくわかっていないが、学生時代よりはイメージを持って読めたと思う。

 高度経済成長時代の「日本」経済を支えたのが製造業だということは、間違いないだろう。
 右肩上がりの成長が終わり、アジア諸国の成長や円高によって、製造の現場が苦しくなっても、電気・機械製品は、「日本」の看板産業であり続けた。
 製造業における日本の地位がいよいよ苦しくなったのは、21世紀に入ってからではなかろうか。

 製造業では基本的に、メーカーが組み立てを行うのだが、部品は下請けの工場が作る。
 「日本」の技術力とは、製品の設計だけでなく、設計図に書かれた通りの部品を作ることができるかどうかにもかかっている。

 著者は、ものづくりを土台を支える技術力は、機械の力でなく、人間の力だと考えられている。
 1ミリの百分の一というような精緻な仕上げや、今ある機械では作れない部品を作る工夫は、人間にしかできない。

 著者は、ものを作るのは、機械でなく人間だと確信されている。
 働くのは、技術・意志・感情をもつ人間であって、機械ではなく、人間は機械ではないという主張である。

 製造業をめざしていたわけでもなかった学生時代にこの著者の本を、熱心に読んだのは、そんなところに惹かれたからだろう。

(ISBN4-480-03947-3 C0136 \780E 2004,4 ちくま文庫 2013,6,3 再読)