網野善彦・石井進『米・百姓・天皇』

 網野氏が長年取り組んでこられたのは、「日本」とは何かということだったと思われる。

 江戸時代に国学が取り組んだのも、そのようなテーマだった。

 国学は『古事記』を観念的に解釈して、観念的な「日本」像を描出した。

 それは観念的なナショナリズムへと変形されて、「近代日本」という醜悪な世界を作り出した。

 網野氏は、「日本」を既成観念から解放して、事実に基づいて再構成しようとされた。
 その一つの到達点が『日本社会の歴史』(全三巻)だった。
 ところが、そこに描しきれなかった論点は、じつは膨大に存在するということが、本書を見ればわかるのである。
 その論点とは、

1 「日本」人が稲作民族だったというのは虚像である。雑穀生産・樹木生産の占める部分は大きい。「農間稼」の部分がじつは大きいはずだ。
2 「日本」の古代・中世史は、「西日本」による「東日本」への併合ないし侵略である。
3 「士農工商」とは明治以降作られた概念である。
4 「弥生時代の日本人」というような言い方は論理的に成り立たない。
5 国家の作り出した虚像によって排除されたものの意味を明らかにすべきである。その一例は、養蚕史や女性史である。
6 明治維新前後の時代において、列強の植民地になる道があった。「日本」はそれを回避したが、植民地化された方がむしろよかったかもしれない。

などである。

 6あたりは、目から鱗の発想である。

 弱肉強食の時代を乗り切った「日本近代化」は、それはそれで希有なことだったと言える。
 しかしそのことが、「日本人」から弱者に対するまなざしを失わせたのも事実である。

 石原慎太郎あたりの床屋談義が、「日本人」の本音に通底しているから、彼らは「ウケル」のだろう。
 網野氏は、そこまで見抜いておられたのである。

(ISBN978-4-480-09348-6 C0121 \1100E 2011,1 ちくま学芸文庫 2013,6,20 読了)