安田節子『自殺する種子』

 世界の食がどうなっており、「日本」の食はどのような方向に向かっているかをまとめた本。

 肉や牛乳に関する記述も多いが、まずは表題にある、農作物種子の現状について、しっかり読むべきだと思った。

 「日本」の消費者のほとんどは、野菜の品種になど、まったく関心がない。
 スーパーの店頭に並ぶ食材のうち、品種表示がされているのはコメくらいだろう。

 実際のところ、品種によって食味はずいぶん異なるし、旬の時期も異なるから、調理方法も異なってしかるべきなのだが、食べ物が美味いか美味くないかにひとかたならぬ関心を持っているらしいのに、最も基本的な点に無関心なのだから、おかしなものだ。
 それくらいだから、それらの食材が誰によってどのように育てられたかなど、たぶん全く興味がないんだろう。

 同じ食べるなら、つまらないものを食べるより、美味しいものを美味しく食べたほうがよいに決まっている。
 要するに、「日本人」は、食の本質とは最も遠いところで、食生活を送っているのだといえる。

 食材となる農作物には、無数の品種がある。
 それは、種カタログや種屋さんのサイトを物色した人なら、自分も含め、誰でも知っている。
 不覚なことに、そこに並ぶ無数の品種の履歴にも注意しなければならないということは、ほとんど意識していなかった。

 以下は本書による新知識である。

 今、注意しなければならない点の一つは、多くの種苗メーカーが作出しているF1(一代雑種)である。
 F1種子から作られる農作物の優秀な性質は、法則上、その種子一代にしか、あらわれない。
 F1種子からできた作物からも種とりできるが、その種子はF1以前の交配親の形質があらわれる。
 それは多くの場合、劣勢な形質だから、その世代の作物を作る価値は基本的に、ない。
 従って、F1種子は、一度しか使えず、毎年購入しなければならない。

 日本列島の農作物には、かつて、無数の品種が存在した。
 この列島は、気温・気候・土質・日照などが多様だから、形状や食味が無限に多様な伝統作物が、村の数ほども作出されたのである。
 それらの地域伝統作物は、地元で種とりされて改良され、保存されてきた。

 種子メーカーが国内の種子シェアを獲得するにつれて、また、食味や形質の一定しない作物を受け入れない農協など流通過程から排除されて、伝統作物は消滅し、どこにでもある形・色・食味の品種のみがスーパーの店頭に並ぶようになり、消費者は、そのような作物以外の伝統作物が存在することさえ知らないのが一般的となった。
 また耕作者は、(自分もそうなのだが)種子は毎年購入するのが当たり前と思い、種苗メーカーにせっせとお布施を積むようになった。

 1990年ごろまでの農作物は、以上のように概観できたようだ。
 その後、植物の遺伝子操作が容易に行われるようになって、新たな展開がみられるようになった。

 最大の問題は、GM(遺伝子組換え)作物の問題である。
 モンサントなど、本書に言う「アグロバイオ企業」は、自社の農薬に耐性をもつ品種を開発して、種子と農薬の両方を世界的かつ独占的に販売するというグローバル戦略を持つに至った。

 近年、新たに開発された品種が特許同様に、知的財産として保護されるようになった。
 そうすると、農業者による自家採種は、犯罪となる。
 現にアメリカでは、モンサントなどによって農業者に対する損害賠償訴訟が起こされ、同社にとって、裁判の和解収入が重要な営業利益となるほどだという。

 今や植物の遺伝子操作は、二代目に至ると自分を殺す毒素を出す遺伝子を組み込み、自家採種した種子が発芽しないように操作したターミネーター技術や、特定の薬剤の使用によって解除されない限り、植物の耐病性などをブロックする遺伝子を組み込んだトレーター技術が現実のものとなりつつある。

 現状ではまだ、固定種(種とり可能な種子)がたくさん残っている。
 畑が広くないので難しい面もあるのだが、自分でも、なるべく自分で種とりするように心がけたいと思っている。

(ISBN978-4-582-85469-5 C0261 \720E 2009,6 平凡社新書 2012,7,23 読了)