熊谷公男『蝦夷の地と古代国家』

 古代ヤマト国家成立期における、東北地方との関係について詳論した書。

 ずいぶん以前に、『蝦夷・アテルイの戦い』という本を読んだが、その本の一部にある荒唐無稽な言説に、ちょっと辟易した。



 この本は、文献に依存することなく、考古資料にも基づいて、ヤマト国家の東北支配について論じており、たいへん説得力がある。

 「蝦夷」とは、ヤマト国家が、東北・北海道南部の住民を呼んだ蔑称である。
 著者は、「蝦夷」=「のちのアイヌ民族」ではないが、「蝦夷」とはアイヌ民族にも現在の東北地方住民にもつながる人々、ととらえている。民族とはあくまでも歴史的範疇なのであり、現代の民族概念で過去を論断するのはナンセンスである。
 著者ののようなとらえ方が、もっとも事実に近いのだろう。

 現在の東北北部に居住していた人々は、狩猟や採集を基本として暮らしており、ヤマトに朝貢し文化的な影響を受けこそすれ、同国の民としての徴税などには応じておらず、独自の文化を保っていた。
 彼らは国家的統合を必要としておらず、地域集団にまとまって、一定のネットワークによって、互いに結合していた。

 「蝦夷」による朝貢は、双方に利益をもたらしたと思われるが、それはあくまで、ヤマトの優位性を前提とした関係であり、「蝦夷」側に屈辱的な事件があった可能性が高い。
 古い時代の「蝦夷」との武力衝突について、詳しいことは殆どわからないが、上毛野一族が代々、ヤマトからの征討軍を組織していたらしい。
 上毛野氏は、ヤマト首長連合による国造制に抵抗したのではないかと考えられている関東の有力豪族だが、そうであるがゆえにヤマトに服属した後、武力をかわれて、東北侵略の尖兵の役割を果たしたのだろう。

 7世紀後半に、支配体制の一新が図られた(「大化の改新」)時期以降、ヤマト国家は、東北への調略を本格化させる。

 戦略は飴と鞭の二面作戦で、「蝦夷」に対し、徴税を免除し、各種宝物類を与えて歓心を買うと同時に、抵抗するものには、武力で弾圧するといったものだった。
 また、「柵戸」という形で、関東からの植民者が送り込まれると同時に、本書には書かれていないが、捕虜になった「蝦夷」が「俘囚」として集団的に関東に連行され、「蝦夷」が抵抗しにくくなる工夫もされた。

 東北支配の各種拠点として、7世紀半ば以降、「柵(き)」や「城」が設置された。
 これらは、官衙としての機能とともに、軍事的拠点でもあり、720年と780年、さらに840年に「蝦夷」による大きな抵抗が起きた際に、本来の役割を果たしたものと思われる。

 平安時代以降、「蝦夷」の大規模な反乱記事は姿を消すが、東北がヤマトの一部と化したわけではなく、平泉武士政権が東国武士政権に併合されるまで、文化的・政治的独立性は保たれていたと思われる。

(ISBN4-634-54110-8 C1321 P800E 2004,3 山川出版社 2011,8,30 読了)