山本素石『つりかげ』

 ヘミングウェイの釣り小説は、急いで読むのが惜しいほどテンポがよく、無駄がなく、誇張や釣り自慢もない。

 井伏鱒二は高名な作家で、釣り小説を多くものしているが、釣り作家ではない。

 山本素石は、日本を代表する釣り作家である。

 その素石のこれまた代表作が、本書かと思う。

 著者はあとがきで、「私の三十代は、いわば暗闇だった」と述べている。
 体力と内的エネルギーの満ちたその年代に、著者は、妻ではない女性との恋愛と、絵付師の仕事と、主として渓流釣りに明け暮れたようだ。

 素石にとって、絵付けという仕事がさほど充実したものだったとは、読み取れない。
 仕事の中身について、作品には殆ど何も書かれていないからだ。
 仕事は多分に、生計と釣り旅の原資を得るためのものでしかなかったのだろう。

 かと言って、秋本紗恵という名前で登場する情人との関係に溺れていたという印象もない。
 作品が事実だとすれば、それは素石にとって、楽しく苦しいものだっただろうが、泥沼状態となった妻との離婚がようやく成立した日に、紗恵に別れを告げる理由がわからない。

 私小説ふうの作品ではあるが、これは、恋愛を描いた作品ではなく、釣り小説である。
 そのあたりは、意図的にさらりと描いているのかもしれない。

 要するに、素石の30代は、熊野・大峰・北山・丹波・岡山の渓などを、体力に任せて釣り歩いた年月だったのだろう。

 この作品に描かれる山村の姿は、この上なく貴重である。
 熊野・大峰・北山・朽木などについて言えば、主として尾根道ではあるが、自分も歩いた経験のある土地である。
 商売で逗留しつつ、近辺のほとんど手付かずの渓を釣るというのは羨ましい限りだが、素石の観察力は、並大抵のものではない。

 炭焼き小屋に泊めてもらった時の描写はこのようである。

 木を伐り倒す技術も、私が菜っ葉を刻むぐらいのことでしかなく、鉈を研ぐのも、鋸の目立ても私が鉛筆の芯を削るぐらいのことでしかない。山でくらすにはいろいろな智慧が必要だが、その智恵は、言葉や文字になり難い身体的な勘みたいなもので、体験の積み重ねから得られる手と足と呼吸のわざのようなものである。

 このようなコトバがさりげなく綴られる釣り文学を持ち得たことは、この列島で釣りするものの、愉福であると言わねばならない。

(ISBN4-569-56477-1 C0195 P600E 1992,6 PHP文庫 2011,12,27 読了)