高橋典幸『源頼朝』

 源頼朝は東国武士政権の創始者だが、歴史の授業では、頼朝の権力基盤について、きちんと説明されているとは言いがたい。

 伊豆で挙兵した頼朝の麾下へ東国武士たちがはせ参じたという言い方だと、東国武士政権が畿内政権から自立するに至る歴史の流れをつかむことができない。

 歴史の教科書は多く、源氏と平氏のヘゲモニー争いとか、義経・頼朝のヘゲモニー争いという形で、この時期の争乱を説明する。
 だが、12世紀後半の東国に存在した、武士政権を待望する歴史的な動向が、源頼朝という形をとって顕現したというのが実態だろう。
 この本には、そのあたりの流れが簡潔にまとめてあって、わかりやすい。

 頼朝が東国武士を束ねる立場に立ち得たのは、源義朝が、東国の武士団とのあいだに主従関係を築きつつあったからだという。
 挙兵した頼朝が石橋山で敗北したのは、当時の彼に、東国武士たちを束ねる器量がなかったか、少なくともそのように見られていたからだろう。

 しかし安房で再起したのちの頼朝は、東国武士たちの利害代表者として快進撃を開始する。
 その過程で、一度は頼朝に敵対した武士団が彼に帰順し、東国に一大勢力を確立するに至る。
 東国武士たちにとって、頼朝に期待した役割はひとまず、ここまでだったはずだが、頼朝自身はおそらく、京都で平氏に取って代わることを望んでいただろう。
 ここで、頼朝の幕僚の中に、若干の意志の齟齬が生じた。

 平氏に取って代わる立場をめざしたのは、木曾義仲も同様だった。
 また、東国で武士団を束ねる立場に近づきつつあったのは、頼朝ひとりでもなかった。

 そんな中で頼朝が鎌倉政権を確立し得たのは、北条氏を始めとする強力な同盟者を得ることができたからである。
 従って頼朝は、自分の権力基盤である武士団の意向に従わざるを得ず、鎌倉に新たな政権を樹立することになった。
 その後、平泉政権との戦争や、承久の乱(これは頼朝後ではあるが)などを経て、武士政権はさらに強固に転形されることになる。

 頼朝在世中の鎌倉時代初頭に、政権内部で深刻な争闘が頻発している。
 これは単に、頼朝や北条氏の独裁的権力の結果するところではなく、武士団内部の路線闘争という側面をも、見逃せないと思われる。

 治承の騒乱から鎌倉時代までの歴史の主人公はやはり、在地の武士団である。
 彼らの目から、歴史を再構成しなければいけないと思う。

(ISBN978-4-634-54826-8 C1321 \800E 2010,5 山川出版社 2012,6,18 読了)