寺崎保広『藤原京の形成』

 藤原京は、ヤマト国家最初の本格的京都である。

 位置的には、奈良盆地の南に偏しているが、権力内部のヘゲモニーを握った蘇我氏の基盤に近いところから、ここが選ばれたのだろう。

 京域に大和三山を含んでおり、風光は明媚だったと思われる。

 平城京ほど長く使われなかったため、出土物も限られることや、すでに住宅地化が進んで発掘調査が困難なことなどから、京域の暮らしについて平城京ほど詳細な研究はされていないようだ。

 それでも、宮の規模や市場の存在、人口などについては各説が出されており、成熟期を見る以前に盆地北部へ新京の造成が始まったため、京域全体としては閑散としたところもありはしたが、平城京に劣らぬ大規模で本格的な京都だったことは、実証されている。

 京都が造営されたことの意味は、ヤマト国家が連合政権から中央集権政権へと移行した点にある。
 大王ないし天皇を中心とし、豪族が人民を支配するという点において、大きく変わらないという言い方もできるが、豪族たちや国家の職員たちが宮の周辺に住み、宮へ出勤するというあり方は、天皇の権力の大きさを実感させるのに十分だっただろう。

 遷都自体は珍しくなかった時代だが、造営に要する負担の大きさを考えると、わずか10数年で放棄されるのは、モッタイナイという気がするが、当時の権力者に、そういう意識があったかどうかは疑わしい。

 遷都の理由として、位置が悪いという説もあるが、自分としては、遣唐使が長安を見学してカルチャーショックを受け、藤原京の不十分さを思い知ったのではないかという、著者の説には説得力があると思う。

(ISBN978-4-634-54070-5 C1321 P800E 2002,3 山川出版社 2011,10,4 読了)