佐高信・魚住昭『だまされることの責任』

 1946年4月に映画監督の伊丹万作が書いた、「戦争責任者の問題」という、この上なく鋭い考察を紹介するとともに、その後60年近くを経た「日本」人がどれだけ変わっただろうかということをテーマとする対談録。

 一般「国民」もまた、だまされるのだが、だまされたと知っていてだまされるのは、知らずにだまされるよりはるかに、たちが悪い。
 伊丹は、

 戦争の期間を通じて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にもすぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であった

と述べている。

 伊丹に戦争協力を強いてきたのは、身の回りの小さな権力者たちだったのである。

 対談の中で槍玉にあがっているのは、小権力者ではなく、中坊公平や渡辺恒雄といった本当の権力者の周縁にいる人々や、権力者そのものといえる野中広務らである。
 瀬島龍三についても多くとりあげられているが、この人も、権力の周縁で跳梁していた人物である。

 身近に存在する小権力者は、じつは騙されたいと思っているのではないかと考えている。
 騙されたと思うことができれば、自分で責任をとる必要がなくなるからである。

 目の前の現実や現場に対し、人は責任を取らなければならないはずだ。
 苦しんでいる人や困っている人がいればできる範囲で手を貸すべきだし、不正義には異議を唱えるべきである。
 見てみぬふりすることに、馴れてはいけないのではないか。

 伊丹が上で列挙したような人々は、特に心すべきではないのか。

 福島第一原発の吉田所長の行動がしばしば話題になる。
 彼の行動によって、福島県・東日本の被害が今の状態に収まっているのは事実だろう。
 現場を知らない東電上層部の指示より、現場の長としての責任を優先させれば、あのような行動は当然といえる。

 このようなとき、東電上層部のような小権力者たちは、「自分は上層部の指示に従っただけで自分に責任はない」と言い、上層部は「政府の指示に従っただけだから自分に責任はない」と言い、政府は「そんな指示を出した事実はない」と言う。
 東日本が壊滅的な事態になったかどうかという時にさえ、言ったとか言わないとか、自分は言われたことを伝えただけとしか、言えない人々(立場)に、存在する価値があるのだろうか。

 人は、現場に対して、責任を持たなければならないのであって、上に対し責任を持つのではない。
 上意下達でのみ動く組織においては、現場に責任を持つ人がおらず、すべてのトラブルに対して責任のなすりあいが起きる。
 今の教育現場も、そんな状況になりつつある。

(ISBN4-87498-329-4 C0036 P1500E 2004,8 高文研 2011,6,28 読了)

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