中村靖彦『日記が語る日本の農村』

 長野県山形村で、1930年から本書執筆まで連綿と書き続けられてきた日記から、なにを読みとることができるかを、簡略にまとめた書。

 日記の筆者は、村会議員もつとめた村の名望家で、勤勉に働きつつ大きく営農されてきた人物である。

 筆者の経営は、戦後すぐ以来しばらくは養蚕が基本だったが、養蚕の斜陽化に伴い、酪農に転じ、さらに葉たばこ・ネギ・長芋などの特産品を生産されている。

 プロの農業者として人並みの収入を得たいと願うのは、当然のことである。
 「農業」によって人並みの収入を得ようとすれば、家内労働力を合理的に配分しなければならないから、少量多品種経営などあり得ない。

 幕末から戦後までの時期に、列島の農業者を支えた養蚕業は、高度経済成長の開始とともに、衰退した。
 この時代の小学校の社会科教科書に酪農の有効性が記されていたから、酪農は果樹とともに、農政の柱と目されていたのだろう。
 日記筆者が酪農に転向した背景にはおそらく、こうした政策転換がある。

 しかし、「日本」の農政に一貫していたのは、広大な平地を持つ国の低コスト農業と、コスト面で競い合うという、自爆政策ともいうべきものだった。
 従ってそこから案出されたのは、将来展望もなく、農政官僚や御用学者が考えついたその場限りの発想でしかなく、果実や畜肉輸入の自由化によって、裏切られた。

 日記筆者は、こうした変化に唯々諾々と対応しつつ、現状に至っているようだ。
 著者はそれに違和感を感じておられるようだが、日記筆者が状況変化に対応することができたのは、経営規模がかなり大きく、「人並み」よりかなり多くの粗売り上げを得ることができていたからだろう。

 そのためには並の勤め人とは較べものにならぬ、自己抑制や勤勉努力や、「嫁」による自己犠牲的な無償労働が必要とされたのであり、次の世代にそれらを伝えるのは、非常に困難なのである。

 名望家に属するが故に、日記筆者は、体制に不満を持つことなく人生を刻むことができたのだろうが、離農した人々や未だ困苦の中にある人々にとっての戦後の暮らしは、また異なった様相を示すのではなかろうか。

(ISBN4-12-1013332-8 C1261 \740E 1996,11 中公新書 2013,2,6 読了)