村井章介『境界をまたぐ人びと』

 境界は、人為的に作られるものだから、なくすこともできる。バリケードがない境界は、存在しないと同じである。

 本書でとりあげられているのは、列島各地に存在した「日本」と外部との境界を行き来した人びとである。

 2011年も、「学習指導要領」の説明会に行ってきた。(これは強制なのである)

 同じ説明会に、2009年にも行かされた。

 そのとき、講師の人(教育委員会の人)が熱狂的に、「日本人としての自覚を持たせるよう教えろ」と言い募るので、「日本」とはなんですか、と質問したところ、「私はお答えする立場にございません」と返事された。

 今回は、事前に質問用紙を提出しておいたので、催促したら、答えてくれたのだが、「『日本』とは「北海道から沖縄のことであって、『日本史』とは北海道から沖縄の歴史のことである」とのたまった。

 「日本」を自称する国が古代の日本列島に存在したことは承知しているが、古代の北海道が「日本」に属していたという事実は存在しないから、例えば、古代日本は律令制国家であったというのは、事実でないのではないかと重ねて問うたのだが、説明者は、同じ答えを何度も繰り返した。

 「日本」の歴史教育は、史実とは異なるストーリーを教えることになっている。「学習指導要領」と呼ばれるストーリーを書いているのは、文科省の役人である。

 良心のカケラでもあれば、嘘を教えることなどできないはずなのだが、嘘であるかどうかは二の次として、現場は、「学力」という特殊な能力(これが役に立つかどうかも二の次だ)を開発することが、教育委員会からも親からも期待されているらしく、その場の雰囲気は、「国が決めた教育内容に異を唱えるなんて変わった人だ」もしくは「早く帰りたいのに文句を言うから説明会が長引くじゃないか」という感じだった。

 だがしかし、3.11以来、少しく正義に目覚めることにしたのである。
 『だまされることの責任』について、わずかに自覚したと言ってもよい。

 自ら善悪を判断しないで、他人に認識や行動を強制しておいて、あとになって「私は騙されてました。悪いのは騙した人です」と言っても通らない。

 なんの自慢にもならないが、多少の不正義や嘘やゴマカシや馴れ合いや追従を飲み込むくらいのことは、十分できるつもりである。
 これからだって、そういう中で生きていかねばならないくらい、百も承知である。

 しかし、原発は安全だというほどの嘘をつくことは、拒否する。
 文科省は、原発の安全性について教えよと言ってきたし、自然エネルギーには越えられない課題が多いと教えよと言ってきた。
 原発とエネルギーに関する学習指導要領を書いた人物は、いまだに、頬かむりしているではないか。

 だから、「日本」の歴史は、教授者が自分で構想し、責任を持って教えることができる内容を教えるべきなのである。

 本書を読んで、「日本」の境界は、変幻自在だったことを理解できた。
 たとえば、北の境界について。

 北海道にアイヌ、東北にエミシと画然と棲み分けていたかどうかについては、わからないようだ。
 文化的境界は、アイヌ的北方文化とヤマト文化とが、環境の変化やヤマト国家の侵略により、、東北北部を上下していた。
 ヤマト圏内とて、現在の国家のように、国家が民衆を完全に支配できる状況ではなく、反乱を起こさない程度に服従していたのだった。
 平泉国家は、東北文化圏のひとつの到達点だった。

 敦賀や大宰府には、中国人が在住・逗留しており、対馬は日朝交流の拠点だった。
 琉球王国は、薩摩と中国の両方による支配を受ける半独立国だった。

 ヤマト帝国の周縁には、ヤマトとうまく付き合おうとしつつ、独自性を保持し続けた国家あるいは民族が、明治維新まで存在していたのである。

(ISBN978-4-634-54280-8 C1321 \800E 2006,5 山川出版社 2011,8,7 読了)