今日は学校だった。
ここ数日の校舎とは別のところだったので、ちょっと迷ったが、遅刻するほどでなかったので助かった。
明治初年に建築された重要文化財の校舎で勉強できるのは、幸運だと思う。
昔の建物というのは、じつに美しくできている。
木造校舎だが、エアコンが効いていて、快適に勉強することができたし、授業もまずまず興味深く拝聴することができた。
今日は学校だった。
ここ数日の校舎とは別のところだったので、ちょっと迷ったが、遅刻するほどでなかったので助かった。
明治初年に建築された重要文化財の校舎で勉強できるのは、幸運だと思う。
昔の建物というのは、じつに美しくできている。
木造校舎だが、エアコンが効いていて、快適に勉強することができたし、授業もまずまず興味深く拝聴することができた。
今日は学校に行く日だった。
都会では、電車の時刻に気を使う必要が全くないのはありがたい。
一本あとの電車がすぐに来るからだ。
また移動距離がさほど長くないから、電車に長時間乗る必要が全くなく、いつも鈍行で十分である。
いつもすいているから、この生活記や山行記などのラフ原稿程度なら、電車の中で十分書くことができる。
仕事上の能力向上のためというふれこみの講習会だが、今日の講習は、実質的には、「改正教育基本法」や「新学習指導要領」の解説だった。
普通なら、教育委員会が講習会を開き、「出張」扱いで参加しているものと、内容的に相違はほとんどない。
違うところの一つは、話をするのが大学教員だという点である。
埼玉県教育委員会の人は、慇懃無礼な態度で肝心なことは何も言わないし、相手がそれを理解しようがしまいがどうでもよいという態度である。
昨年、学習絵指導要領の講習会で「日本人としての自覚を深めさせるよう指導せよ」という話を2時間ほども聞かせた上、「日本人とは何ですか」と質問したら、「当方はお答えする立場にございません」とのたまったくらいである。
大学の先生は、受講生に理解させようと思っているから、ていねいに説明するし、それなりの教材も用意してくれる。
感心するほど説明の仕方の巧い先生もいる。
ただ、ここでは、授業のあとに試験がある。
今日の授業は、それなりに勉強になったのだが、自分としては納得しかねる部分も多かった。
そこで、試験の前に「答案は文科省の意向に沿う答えでないといけないのか」と尋ねたところ、先生は、「皆さんが私の講義に基づき、ご自分でお考えになったことが正解です」とキッパリ言ってくださった。
疑問をもつことも許さないし、疑問に答える必要もないというような埼玉県教育委員会の役人(教頭予備軍である)と比べて、なんとまともなんだろうと、感動した。
おかげで、今日は4科目の試験があったのだが、みんなよく書けた。
試験が終わってから、ダメもとで、大学近くの宝塔寺と石峰寺にお参りに行った。
宝塔寺は、さほど大きいお寺ではないものの、境内にいくつもの塔頭を持つ、日蓮宗の立派なお寺だった。
こんなお寺に、5時を過ぎて入れることができて、ラッキーだった。
山門も、本堂も、多宝塔も、たいへん立派なものだった。
源氏物語にも登場するという話だが、どういう場面なのだろう。
宝塔寺の裏山は「七面山」と呼ばれており、山頂直下に七面大明神の社がある。
七面山といえば、日蓮宗の聖地である身延山近くの行場であり、一昨年、登ったばかりである。
道がついていたので、山頂に行ってみたら、一帯の至るところで、コナラが枯死していた。
状況から見て、カシナガの害に間違いないと思われた。
カシナガによる被害はまだ、日本海側に限られていると思っていたが、すでに京都の市街地にまで、広がっている。
山頂から石峰寺に降りる道があったので、下りて行ったら門が閉じられていて、降りることができず、結局また登り返して、宝塔寺から街に出た。
石峰寺を拝観することはできなかった。
『日本海繁盛記』の読書ノートを追加。
学校が休みだったので、一日、嵯峨野を歩いた。
バスで愛宕(おたぎ)寺まで行って、まず愛宕寺にお参り。
新しいものだが、無数の羅漢像がところ狭しとおかれていた。
鳥井本集落まで下って、次は化野(あだしの)念仏寺。
無数の無縁仏がひしめき合っているという感じの、西院の河原が印象的だった。
しばし南下して、祇王寺。
平清盛の寵を得たのち捨てられた白拍子・祇王ゆかりの寺だが、さほど広くはない庭が、とても美しかった。
その手前の檀林寺門跡は、本堂が宝物館を兼ねており、飛鳥時代の夢違観音など、錚々たる仏像・美術品を見ることができた。
ただ、説明してくださった方が、「菊の御紋」を、これでもかとばかりに誇られるのには、少々閉口した。
二尊院は、小倉山の斜面にあり、藤原定家が百人一首をここで選定したという口伝がある。
天台宗のお寺だが、法然と深いつながりがあり、阿弥陀と釈迦の二体の仏像が本尊である。
お寺としては、その次に訪れた常寂光寺が庭も美しく、最も印象深かった。
日蓮宗のお寺で、開山の日しん(ネへんに真)上人という人は、豊臣秀吉が方広寺大仏殿で大々的な供養のイベントを催したとき、その招きに応じなかった気骨の人らしい。
当時の秀吉は、朝鮮侵略で舞い上がっていただろうから、その行為は、かなりの勇気を必要としただろう。
定家の山荘はこちらだという説もあるらしい。
南北朝期の山門や江戸初期の多宝塔も、みごとだった。
御髪神社にちょいとお参りして、次は天竜寺。
孟宗竹林を抜ける道は、よく写真に撮られている。
世界遺産にも登録されているとあって、ここにだけ、アジア系・ヨーロッパ系の外国人が、うろうろしていた。
ここでは、庭園と本堂と法堂の拝観料とがそれぞれ別に徴収される。
足利尊氏をパトロン、夢窓国師を開山とするという、豪華キャストで作られた大寺院なだけに、規模は豪壮なものだった。
最後は、線路を渡って、清涼寺。
ここの釈迦如来像はインドから中国を経て日本にもたらされたというが、本当だろうか。
ちょうど開帳されていた釈迦如来を見ることもできたし、本堂内の諸仏や多宝塔もみごとだった。
ひどい猛暑日で、なるべく日陰を選んで歩いたが、たいへん疲れた。
本日は学校に行く日だった。
遅れてはいけないと思ってずいぶん早く校舎に着いたので、キャンパスに人影はなく、無数のクマゼミが狂ったように鳴きわめいているだけだった。
関東地方にはよく似た大きさのミンミンゼミが生息するが、クマゼミのように絶叫するような鳴き方はしないし、数もそれほど多くない。
今日は在沖米軍基地についての勉強だったが、大学なのに、先生がとてもよく授業を工夫されていて、感心した。
今日の試験はまずまずよく書けた。
試験が終わってから、すぐ近くにある伏見稲荷大社に参詣に行った。
こちらには山門がないので、5時を過ぎても参拝できるのだった。
伏見稲荷には、43年前と44年前に遠足で来たことがある。いすれも徒歩だった。
当時の記憶は全くないが、たぶん大きく変わってはいないと思う。
参拝者が多いので裕福なのか、境内のあちこちで重機が動いており、工事をしていた。
赤く塗られた神殿が、ややもすると安っぽく見えなくもないが、寺社とは元来、派手に彩色されていたはずだから、値打ちがないというわけではない。
とりあえず、せっかく稲荷大社に来たのだから、今年のコメの豊作をお願いしておいた。
今日は学校が休みだったので、一日、物見遊山をした。
「湖都・古都おおつ・1dayきっぷ」が500円だったので、大津線を使って、石山寺・日吉大社・三井寺を回ってきた。
石山寺は、多宝塔が有名だが、やはり下部が四角形で上部が円形という、この塔が印象的だった。
鎌倉時代初期の建築だが、設計者がとても自由な発想の持ち主だったことを感じさせる。
その他の建築物ももちろん、美しいものばかりだった。
資料によれば、創建当時の本尊わきには蔵王権現の像が存在したらしい。
そうすると、修験との関係の深い寺院だったということが想像される。
日吉大社は、いうまでもなく、延暦寺の守護神である。
都幾川村の日吉神社は、慈光寺の守護神だったが、これは、慈光寺をミニ延暦寺と見立ててのことだろう。
桧皮葺の巨大な神殿がいくつもあって、賽銭用の小銭がなくなってしまうほどだった。
なお、日吉大社の存在する大津市坂本は、延暦寺の麓の門前町で、石垣に囲まれた里坊が軒を連ねている。
最も上部に位置する里坊で、今は史跡の旧竹林院の庭園は、心が洗われるように美しかった。
また、坂本駅前には、伝教大師が生まれたという場所に、生源寺(しょうげんじ)が建っている。
生源寺と聞けば、富士山を連想してしまう。
最後は、三井寺(園城寺)を訪ねた。
ここもまた、平安〜鎌倉期の歴史に頻繁に登場する大寺院で、今なお、広大な伽藍をもつ。
平安〜鎌倉期には、興福寺や延暦寺と並び、強大な武力を誇っていたためか、何度も攻撃を受けて、焼亡の危機に瀕した。
従って、現在の伽藍の殆どは、安土桃山時代以降のものが多い。
境内のいたるところに「南無観世音菩薩」という幟旗が奉納されているのはいささか目障りと感じたが、美しく立派な堂宇が広大な境内に立ち並ぶさまは、圧倒的だった。
国宝の金堂には、密教寺院らしく、不動や毘沙門天など、神像がところ狭しと並べられていたが、中にれっきとした役の行者像も置かれていた。
役の行者像の写真が欲しかったが、絵葉書でも売っていなかった。
このように凄いものを、食事もとらずに一日見ていたので、疲れはしたが、頭の中から余計なモノが洗い流されて、きれいになったような気がする。
昨日登った米山には、山頂に米屋薬師という寺院があるのだが、当地(秩父)にも米山薬師があって、春の縁日には、観光客でそれなりに賑わう。
でも、米山薬師の本体は越後なんだろうと思っていた。
昨日下山した水野コースには、観音信仰の史跡があったが、写真の供養塔もそのひとつである。
秩父の文字が逆になっているが、まさしく越後の里人が、山国秩父の札所巡りに訪れた証拠の供養塔なのである。
昨日は、遠く越後の里山に出かけたわけだが、思いがけず、地元の歴史にふれる機会もあったのだった。
気持ちが晴れないので、休みの一日に里山歩きをしてきた。
そろそろ里山には向かない季節になってきたが、奥多摩の御前山を、栃寄沢から登って大ダワ経由で奥多摩駅に下山した。
今日も、里山らしい草花といくつかの滝と、印象的な巨木に出会うことができた。
下山後、瀬音の森・源流部会。
写真は、鋸山から奥多摩駅への尾根にある、天聖神社の天狗。
連休の中日は、ほぼ終日、都内にいた。
畑に寄ってから、東京に出て、まずは駒込の海蔵寺に行った。
ここには、食行身禄の墓がある。
富士山の行者らしく、溶岩を積み重ねたミニ富士山の上に、墓石が建てられていた。
山のまわりには係累の墓石のような石造物が、いくつも建てられていた。
お彼岸とあって、境内は賑やかだった。
その後、銀座で「瀬音の森」の黒沢和義さんの第3回 山里の記憶・原画展を見に行った。
ご本人が「絵がだんだん上手になっているような気がする」とおっしゃっていたが、黒沢さんの筆に、何かが乗り移っているに違いないと思われるほど、心が入った作品ばかりだった。
次の予定があったので、あまりゆっくりできず、失礼した。
それから高田馬場に行って、安在邦夫先生のご退職を記念する集いに出席。
30数年前、ちっとも勉強しない貧乏学生だったが、先生の教えのおかけで、教師としての道をどうにか外さずにここまで来ることができた。
若かった時代を一緒に過ごした学友と楽しい時間を共にすることができた。
写真は、身禄行者の墓。
午前中は、鎮守の祭礼。
役をしていないと、いつもは出ないのだが、今年は役に当たっているので、朝から出かけた。
五穀豊穣の祈年祭だから、出ればご利益があるような気がする。
午後は、日没まで農作業。
第三次落ち葉堆肥を保管箱に移動。
ほぼ完成した落ち葉堆肥を使って、もろもろの耕耘。
雪で折れた木の枝の片付け。
玉レタス小苗の植付けと間引き。
冬越しニンジンの片付け。
ジャガイモの植えつけ。
ジャガイモは一度にやれないので、今日はインカのめざめ4キロのみ。
春ニンジン用のうね立てとマルチ張り。
そんなこんなで日が暮れた。
鎮守の御神木は巨杉だが、大枝が折れないでよかった。
関西方面から帰宅した。
2日と今日は、終日移動していたので、実質的な滞在は4日のみ。
この日は、二上山に登って当麻寺にお参りした。
二上山はライトな山だったが、当麻寺は、伽藍も広大だし、諸仏像や宝物類の存在感が凄くて、一回りすると頭が痛くなるほどだった。
この規模のお寺にお参りするには、一日一ヶ寺を、十分時間をかけて、休憩をはさみつつ拝観しないと、ほんとに疲れてしまう。
暮れ以来、武蔵における役の行者関連の寺院等を回っていたところだが、当麻寺本堂でも、堂々たる役の行者座像に出会った。
金堂の弥勒菩薩を守護する四天王は、役の行者が百済から飛来させたと、いかにも思わせぶりな口伝があるようだ。
ちなみに四天王像(多聞天をのぞく)は、白鳳期の乾漆像だが、その表情はイラン人を思わせる。
ここには、古代史における、奇想天外な未知の事実が隠されているのではないかという気がする。
頭を柔らかくして考えれば、その謎が解けるかも知れない。
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