秩父事件

競進社模範蚕室

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競進社模範蚕室

 朝から田植え。

 自宅周辺は終日雨だったが、畑や田んぼのある小鹿野市街地周辺は、曇り案配ながら青空が見えていた。
 おかけで、さほど暑い思いをせずに田植えが終わった。

 少々疲れてはいたが、午後を回ってからプチお出かけ。
 児玉町の競進社模範蚕室を見学してきた。

 これは完成形なので、木村九蔵が明治前期に考えていたものと同一とは限らない。
 しかし、温度と湿度を制御することにより好結果を得るという基本ラインですでに完成していたので、おおむねこのような蚕室(高窓付きの家屋)が普及しつつあったのだろう。

 これだけの建物を建てようとすれば、現在なら数千万円の投資が必要になろう。
 ここから、秩父民衆の負債の内容が設備投資資金だったのであったという仮説が、現実的になる。
 同時に、「秩父暴動雑録」に記載されている高利貸の暴利が、じっさいのところ一般的だったのかについての疑念も生じる。

 とても有意義な見学だった。

積雪の里山

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トレース


雪庇


やせ尾根の下り

 朝から、雪降り。
 やがてみぞれに変わったので、道路は今のところ問題なし。
 友人たちが今朝、奥多摩に登山に行ったのだが、おそらく苦戦しているだろう。
 自分も明日朝から、御前山に登る予定。

 終日、秩父事件関係の集まり。
 大学時代の恩師のご講演を聴くことができて、感激した。

 写真は今日も、高山の風景。

加藤織平の墓

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加藤織平の墓


 梅雨の中休みで、いい天気だった。

 退勤後、農作業の前にふと思い立って、加藤織平の墓にお参りしてきた。
 知ってる人は知ってると思うが、秩父困民党の副総理である。

 困民党への参加にあたって、自分が貸していた貸金を棒引きにしたという、義侠の人物である。
 困民党=貧民というシェーマは、すでに30年以上以前に論破されているのだが、一般的には未だ否定されているとは言いがたい。

 加藤織平を動かしたのは、義侠心だったと思っている。
 人の道に反する不当な行為は、許されるべきでない。
 そんな義侠心から命を張って正義を実現しようという人間がいたことに、疑問を感じたり、経済的背景があったのではないかなどと勘ぐるほうがおかしい。
 誰にだって、人間の血が流れているのだ。

 ニンニク掘りの続き。
 ニンニクキゴの植えつけ。
 鞍掛大豆の種まき。 除草少々。

金沢から日野沢へ

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カタクリ


 秩父困民党の武装蜂起に際して、風布組先発隊が下田野村の押ん出し河原で捕まったあと、本隊は皆野から赤平川沿いに椋神社に向かうのを避け、末野-野上-出牛峠と歩いて、金沢村に入った。
 金沢村から下日野沢・上日野沢村のどこかを通過して下吉田村椋神社に入ったのだが、そのルートについては定説を見ていない。
 出牛から金沢村加増・更木耕地を経て風早峠に至るルートは、当時のメインルートの一つであろうから、風布組の進軍ルートとして有力であることは確かである。

 地形図に破線は記載されているものの、廃道の可能性は高いと思われたが、現状はどうなのか、歩いてみた。

 カタクリの里から浦山耕地上部の別荘地まで車道を行き,破線路を辿ろうとしたが、案の定、ほぼ廃道化していた。
 藤原への分岐まで行って少し休み、カタクリの里へ戻った。

 午後は畑仕事。
 里芋の植えつけ準備で、日が暮れた。

 写真は、カタクリの里のカタクリ。
 峠付近のカタクリは、まだ芽吹いたばかりだった。

秩父事件130周年集会にて

2014.11.9



 菅原文太さんの訃報に接した。

 俳優さんのことはほとんど知らないのだが、先月の9日にお話を伺ったばかりだったので、ショックであり、たいへん悲しい。

 1980年に放送されていた大河ドラマ・『獅子の時代』(テレビ受像機を持たない私は毎週日曜日の夜に職場に出かけてこのドラマを見ていた)のラストシーンは、とても格好よかった。

 ネットをしばしうろついて、菅原文太さんとはどのような人なのかを知った。

 日本国憲法の精神を大切にし、「農」を大切にしておられることがわかった。

 このような人を失うことはじつに残念であるが、ご冥福をお祈りしたい。

 読書ノートに『熊谷直実』を追加。

秩父事件130周年

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秩父事件130周年



 秩父事件130周年集会に行ってきた。

 コンテンツは、映画『草の乱』・秩父農工科学高校の生徒による秩父屋台囃子の演奏・菅原文太氏の講演だった。

 『草の乱』を観るのは何度目かわからないが、何度観ても、初めて観たような感動がある。

 菅原文太氏の話は、ややとりとめない感じでもあったが、ベテラン俳優さんらしくはっきりした口調で、秩父事件と現在の社会に対する思いを語られた。

 聴衆が集まるかどうか不安もあったが、まずまず盛況な会でほっとした。

 今日は、長野県東馬流で困民党軍と高崎鎮台兵との銃撃戦が行われ、多くの若者が散ってから130年目の日である。

水ノ戸から栂峠

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ハナイグチ1


ハナイグチ2



 十石街道の水ノ戸から栂峠を歩いてきた(ルート)。

 コースとしては、北相木から栂峠の続きになる。

 実踏してみた結果、北相木加和志集落から水ノ戸まで、実働4時間ほどである。

 水ノ戸から白井まで、3時間程度と思われるので、北相木から楢原まで実働7-8時間、健脚なら一日で秩父まで駆け抜けることも可能かと思われる(ハイキングでなく秩父困民党の話)。

 作業道が開削されたり、廃道化したあと、自転車乗りの人々によって再整備されたりしているので、かつてのルートを完全にトレースできたわけではないだろうが、まぁほぼ当時のルートだろうと思われる。

 栂峠からは来た道を戻るのでなく、途中から十石峠への尾根を行った。

 カラマツ林が多いので、ハナイグチが点々と出ていた。

 帰ってから、はと麦の脱穀と調製。

 畑に行って、宮ネギの種まき。

 日没になったので、終了。

加波山事件

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タカキビ餅


 雨のやみ間に、サクラ丸太の小切り。
 時間のあるときに切っておいて、出勤前に割ると薪作りがはかどる。

 ほぼ終日、秩父事件研究顕彰協議会の総会と講演会に参加。
 講演会では、加波山事件の概要と事件顕彰運動について、会津の赤城弘さんのお話をうかがった。
 赤城さんのお話を聞くのは、1992年夏以来だった。

 講演を聞いていて、感じたこと二つ。

 加波山事件参加者たちが政府顕官に対する爆弾テロを計画していたことは事実だが、明治維新前後の政治運動において、テロはごく一般的な活動形態の一つだった。
 テロリズムが運動としてどれほど有効かについては大いに疑問であるが、テロ=悪というステレオタイプな発想は、2001年9月11日に発生した事件以後、急速に広まり、論争相手や政敵を「テロリスト」と呼んで罵倒する風潮さえ感じられる。

 テロ=悪かどうかは、時代の流れの中で評価されるべきである。
 例えば、伊藤博文を殺害した安重根のテロ行為は、民族の敵だった伊藤を殺害し、日本による大韓帝国の併合に抗するために身命を賭した英雄的行為と評価できる。

 明治17年当時の政府は、無理非道な法律によって民権派を幾重にも縛るだけでなく、無数の密偵を放って民権運動を撹乱していたのであり、合法運動に限界があるのは明らかだった。
 自由政府実現に燃える若い人々がテロによる局面の打開を考えたのは、理解できることである。

 「大化の改新」は中大兄皇子等による蘇我入鹿殺害と政権奪取だったのだが、「中大兄皇子は人殺しだ」というような評価には意味がない。
 テロ行為はすべて許されないというような発想では、歴史の流れを理解できないだろう。

 もう一つ。加波山事件は結果的に孤立した旗揚げに終わったわけだが、事件参加者たちが考えていたのはもちろん、あのような自己満足的な蜂起ではなかっただろう。
 福島・喜多方事件以外の「激化事件」と加波山事件との関係は、当時の自由党の路線の実態が明らかでないため、ほとんどわかっていない。
 とはいえ、秩父事件につながる民衆蜂起路線とテロリズム路線には重なる部分も多いはずで、加波山事件の人々とて民衆蜂起を否定していたとは思えない。

 加波山事件のめざしたものを、より深く追究してみる必要があると思う。

 講演会終了後、畑で農作業。

 サラダ菜とチンゲンサイの種まき。
 春ほうれん草種まきの準備。
 ウドの畝に、稲わら敷き。
 以上で日没。

 写真はタカキビ餅。
 タカキビを挽き、もち米と合わせて搗いたもの。
 癖のない味だが、ひどく美味というほどでもない。


義民兵内供養塔


 落ち葉堆肥の切り返しをしなければならないのだが、本庄市で「中仙道伝馬騒動シンポジウム」が開かれると聞いたので、そちらに出かけてきた。
 伝馬騒動については、『明和の大一揆』やいくつかの論文を読んだ程度しか知らなかったので、いい勉強になった。

 シンポジウムの前に、美里町関の義民兵内(ひょうない)供養塔を見学した。
 兵内は、20万人ともいわれるこの一揆のリーダーと目され、ただ一人死罪となった人物である。

 兵内の罪科が、増助郷撤回嘆願を主導した点にあったのか、それとも願いが聞き届けられたのちに行われた打毀しに関連するのかは、明らかでない。
 また、増助郷撤回嘆と打毀しの関連についても、実証的な研究を目にしていない。

 このあたりが今後の研究課題なのだろう。

東秩父村にて


 秩父事件の現地見学会で、東秩父村に行ってきた。

 秩父困民党の一隊は、明治17年11月4日から5日にかけて、大野原村から三沢村を経て粥仁田峠を越え、坂本村に入った。
 隊長格は落合寅市だが、メンバーには、井上善作・木島善一郎・宮下沢五郎など、そうそうたる面々が顔を揃えている。

 この隊は坂本から小川町・今市村を経由して熊谷宿へ進撃することを企図していたが、警官隊及び東京鎮台の一小隊と粥仁田峠で戦って四散した。

 寅市は四国に潜伏したのち大阪事件に連座して逮捕され、服役したが、無事出獄して、秩父事件の顕彰に後半生を捧げた。「秩父事件」の名称は、寅市の命名である。
 沢五郎は重禁錮2年。
 善一郎は軽懲役7年の刑で獄死した。
 善作の行方は今もわかっていない。

 坂本村で、困民党軍および官側との応対にあたったのは、坂本村連合戸長役場筆生の福島敬三だった。
 福島敬三は、秩父でも有力な自由党員の一人だった。

 新井周三郎と門松庄右衛門が自由党入党願への連署を求めて敬三宅を訪れた際、困民を軽侮する発言をしたことは、敬三の「旦那自由党」的立場を示すものと評価されている。(その評価が妥当かどうかは留保したい)
 結果的に、自由党員だったにもかかわらず、秩父事件に積極的に参加したという証拠・証言が見いだされず、執拗な取り調べにもかかわらず、敬三は無罪となる。

 今回の見学で、もっとも興味をひかれたのは、福島敬三宅と連合戸長役場だった福島三郎(敬三父)宅だった。

 ご子孫によると、福島三郎・敬三父子がどのような渡世を営んでいたかは、不詳らしい。
 しかし同家が事件後、広大な山林・田畑を所有し、事件後も村の最有力者として君臨していたのは事実である。

 福島敬三は、「政治思想を持たぬ者など何人いても役に立たぬ」と豪語するほど、自らの政治思想の高さに自信を持っていた。
 彼が民権思想にそこまでのめり込むには、その手引きをした人物がいたはずである。
 それが誰かは、まったく謎である。

 思えば、秩父困民党群像の中に、敬三とよく似た人間がいる。
 一人は村上泰治であり、もう一人は加藤織平である。
 いずれも、若年でありながら裕福で、自由党にも加わっている。

 村上泰治は、事件当時すでに獄中にあったから、彼が自由の身であったとして、秩父事件に対しどのような態度をとったかはわからないが、この問いに対し「おそらく加わらなかっただろう」という事件参加者の証言がある。
 だとすれば、泰治も「旦那自由党」的な考え方の持ち主だったということになる。(この評価が妥当かどうかも留保したい)

 三人に共通しているのは、さほど広大な田畑を所有しているわけでないにもかかわらず、比較的裕福だという点である。
 織平は「質屋良介」とも呼ばれていたから、村内で金融業を営んでいたことがうかがえる。
 泰治も、「自由党入党を勧誘する際、小作人に田畑を解放した」という口碑があるから、質地地主だった可能性が高い。
 そうすると、福島家もまた、金融業によって村に君臨していたのではないかという気がする。

 村内金融業は、高利貸とは異なり、村人が生活上必要とする金円を融通する、村にとって必要不可欠な存在だった。
 従って村人からは、感謝されこそすれ、憎まれる立場ではありえず、いざというときにはもっとも頼りにされる存在でもあった。

 織平が立ち上がり、敬三が立ち上がらなかった(のかどうかについてもはっきりとはわからない)理由はやはり、各自の「政治思想」の実体にあったのだろうか。
 それとも、専制政府打倒に至る戦略の相違が、原因だったのだろうか。

 写真は、福島敬三墓所近くの地蔵像。

 帰宅前に、日没まで、玉ねぎ植えつけ準備。
 帰宅後、Mobable Typeを6.0にアップグレード。5.2へのアップグレードはエラーが出てどうしてもできなかった。今回は比較的スムーズだったが、ブラグインの動作不良が解決できず、見づらいページになっている件についてはおわびいたします。
 現在、解決の努力中。

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