鮎川・三波川・神流川と、西上州の主たる谷は東西に走っている。だから南北の移動には、必ず峠越えが必要となる。自由党や秩父事件の組織活動も、官側の弾圧も、峠を舞台として展開された。
下日野沢村の新井蒔蔵は村上泰治逮捕の際に抵抗したのち逃亡し、秩父事件当時捜査中だった。彼は北甘楽郡天引村に潜伏していたのだが、明治一七年一〇月三一日に、天引村の自由党員古舘市蔵とともに、石間村の加藤織平宅に出向き、下日野沢村小隊長となった。
蒔蔵はどこをどう通ったかなど供述していないが、天引村から鮎川の谷(下日野村・上日野村)に出るには、小梨峠を通る以外にない。彼は小梨峠を越えて上日野村に下り、さらに温石峠を越えて三波川の妹ヶ谷不動に下っただろう。その先はいくつかのルートがあるから、特定はできない。
官側も、連日、これらの峠を登下降した。藤岡警察署の永井弘巡査は、一一月一二日には小梨峠を越え、上日野村田本耕地に入り、困民党幹部一(新井多六郎)・事件参加者二七・博徒三の合計三一名を逮捕した。
古い小梨峠の道型は今、ほとんど残っていないが、峠の馬頭観音は健在である。
秩父事件の最近の記事
萩原勘次郎は秩父郡三沢村の人で、秩父事件当時22歳で自由党員。三沢村小隊長。身長は五尺二寸四分とあるから、今なら小柄な方になる。「物色票」には顔は長く立派で、人品がよい、と記されている。
裁判言渡書に記されていることが全て真実かはわからないが、それによれば、女部田梅吉に誘われて、明治17年10月に自由党に入党した。武装蜂起後には、八面六臂の活躍を見せる。石間村戸長役場で武器の徴発、捕虜(青木巡査・千葉技師)の監督などを担当したあと、旗揚げの際には小隊長として指揮旗を携えて進軍。その後望遠鏡を預かって、蓑山で警官・軍の見張りにあたった。軽懲役8年に処せられ、判決から約1年後に獄死。
言渡書に記載されているのはおおむね以上だが、実は勘次郎はもっと重要な役割を果たしていた。信州北相木村・菊池恒之助の言渡書には、明治17年9月に萩原勘次郎が「剣道指南」のために北相木に招待され秩父困民党の状況を信州に伝えている。勘次郎はさらに同年10月20日、再び北相木村に赴いて、同村の自由党員たちに困民党への協力を要請している。
秩父から北相木へは、わき目もふらずに歩いてまる二日かかる。勘次郎はよほどの足達者だったのだろう。人品よく立派な顔立ちで、剣道を教えるほどの腕前ですばしこい若者とあって、困民党幹部からも重宝されたのだろう。
まだ若いのに父母はなく、妻子もおらず、獄死したから子孫もいない。同じ地番から萩原縫次郎という人が事件に参加して罰金刑ですんでいるから、縫次郎がこのお墓を建ててくれたのだろうか。
秋野菜予定地の耕うん続き。
しかし暑さはやはり、危険な感じがする。
晩生白菜の芽が出ないので、まき直し。
写真は、椋神社。
朝から人間ドック。
前夜からの断食とバリウム検査が面白くなかったのだが、終わってよかった。
けっこう疲れたので、一日身体休め。
写真は、下吉田村の作太郎地蔵。
高野作太郎は、秩父事件当時30歳の木挽職。
放火の罪を着せられて有期徒刑12年を宣告され、釧路集治監に送られてアトサヌプリ硫黄鉱山で外役させられた。
16年間でのべ1370人ほどの囚人のうち、500人以上が死亡するという劣悪な環境のもとで彼も亡くなった。
死んだ人はその場に埋められたが、その後、改葬の際に掘り起こしたところ、死者の足には鎖がついたままだったという。
囚人労働を発案した井上毅は、大日本帝国憲法起草にも関わった伊藤博文の側近。
囚人を使えば懲らしめにもなり、死んだら国費の節約になるから一石二鳥だ、ということを彼は、述べている。
高野作太郎は、取り調べでずっと無実を主張しており、彼の犯行を証言した人物も、のちに証言の取り下げを願い出ている。
秩父事件の史跡めぐりを兼ねて旧下吉田村をウォーキング。
実働3時間ほどだったが、サンダル履きで速歩きしたので、けっこう疲れた。
彦久保次郎吉墓近くで、石段からササクレヒトヨタケが出ていた。
今日も旧ムクゲ公園で山林作業。
午後は畑で農作業。
秋野菜の片づけと耕耘。除草。
今日もまずまず疲れた。
加波山近くの山中で、こんな道しるべを見た。
この日登ったルートは、長岡畷から加波山に至るメインルートだった。
加波山事件を起こして興奮冷めやらぬ活動家たちが駆け下った道はここだろう。
旧ムクゲ公園で公園整備の手伝い。
先日のかかり木は結局、自分で処理することができず、仲間にやっていただいた。
その後玉切り。
写真は、下館・妙西寺の加波山事件参加者墓地。
明治17年9月、茨城・福島の自由党員たちが政府転覆を叫び、加波山で手製の爆弾を持って決起した。
彼らは決起に加わるよう呼びかける檄ビラを地域住民に配布したが、呼応する人は一人もいなかった。
やむなく下山したメンバーは真壁町の長岡畷で警官隊と戦い、双方に一名ずつの犠牲者を出して四散した。
手配されたメンバーは全て逮捕され、ほとんどが処刑された。
帝国議会は明治43年、「加波山事件殉難志士表彰ニ関スル建議案」を可決した。
早朝から雨の降り出しまで、農作業。
いんげん豆の植えつけ終了。
夏野菜植えつけ準備。ほぼ終了。
ゴーヤや四角豆のためのヤグラ建てはまだ終わらない。
きゅうりの植えつけ準備。
ニラの植え替え。
ビニールポットに四角豆の種まき。
写真は、漆木山手前あたりから望んだ沢戸。
耕地は少ないが、人家はとても多い(現住されているかどうかは別として)。
かつては、それでも暮らしていけたのだ。
奥山山村に暮らした人々を「農民」と定義すると、耕すべき土地がまったく狭小なのだから、階層別所有反別の表を作ればほとんどが「極貧層」に分類される。
それでも十分に立派な屋敷が建ち並ぶ理由を、歴史学は説明していない。
ちょっくら人に会いに小海町へ。
待ち合わせ時刻にいくらか余裕があったので、馬流駅近くの秩父暴徒戦死者の墓にお参り。
明治17年11月9日早暁。
秩父困民党は、陸軍高崎鎮台兵と銃撃戦を交わして壊滅した。
引き取り手のなかった異郷の若者たちを、ここの人々は丁重に葬ってくださった。
昭和9年。
事件50年を経て、この地に建てられたのがこの墓石である。
墓地はいつ来てもきれいに清められ、ここへ至る道標は秩父市内よりずっと多い。
人の優しさとは、いつまでも忘れない心のことなのだ。
秩父事件史跡めぐりの打ち合わせ。
天気がどうにかもってくれたので、終わってから夕方まで農作業。
らっきょう植えつけの準備。
草むしり。
写真は、椋神社の狛犬。
最近のコメント