神社仏閣

稲荷様

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稲荷様


 前線の南下による雨雲がかかり始めており、日没とともに空気がひんやりしてきた。
 台風は、絶望的に遅いスピードで列島を縦断しそうだ。
 たいへん深刻な事態になりそうで、胸騒ぎがする。

 午前中いっぱい好天で、ひどく暑かった。
 畑に行って、白菜・つぼみ菜・種ニンニクなどの植えつけ。
 ニンニクはこれで完了。
 あとは、ほうれん草の種まき。

 畑の空いたところがほぼふさがった。
 とりあえず、秋から冬にかけて食べるものはかなり準備できたことになる。

 午後は、地域の市民劇団の公演。(こちら)
 舞台と客席との距離が短く、キャストの方々のパワーをまともに受ける芝居だった。

 帰宅後、紙ポットに、つぼみ菜・玉レタス・善光寺雪菜の種まき。

 写真は、芝居小屋近くにあった稲荷神社の鳥居。

生島足島神社

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大ケヤキ

生島足島神社


 午後、休みをもらって、国立博物館で開かれている「空海と密教美術展」を見に行った。
 あまり時間がなかったため、駆け足の見学になってしまったが、空海が唐から持ち帰ったものを含む、あまたの密教法具や仏像は、見てよかったと思えるものだった。

 密教系の各種仏像は、教義に即した形であるだけでなく、やはり美術品だと思う。
 仏師の名前はほとんど伝わっていないが、これらの仏像(ほとんどが木造だった)を刻みだした人々の才能は、想像を絶するものがある。

 夜は、瀬音の源流部会。

 写真は、昨日の続きで、上田の生島足島(いくしまたるしま)神社。
 おそらく、前山寺と関係のある塩田平の大きな神社である。

 北条氏・武田氏・真田氏の信仰が篤く、特に、家臣団が武田信玄にあてた大量の血判を伴う起請文は、武田の歴史において大きな意味を持つ。
 内容はいずれも、ほぼカーボンコピーだが、熊野の護符に書かれた、おそらく自筆のものだろう。
 これが、宝物殿のような施設に展示されていた。

 本殿は、堀をめぐらしてあり、境内にはやはり、ケヤキの大木が何本も植えられていた。

前山寺

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大ケヤキ1

大ケヤキ2

三重塔

本堂

モクゲンジの実


 ところで、大峰からの帰途、信州上田に立ち寄った。
 信濃デッサン館の一角で開かれていた写真展を見るためだったのだが、同館は、前山寺の門前に位置している。

 独鈷山に行ったときには、無言館に立ち寄ったのだが、前山寺は見なかった。

 由緒によれば、弘法大師が開創したことになっているが、正確な歴史はわからない。(真言宗に改宗したのは江戸時代)
 当初は、法相宗・三論宗の寺院だったというから、国家仏教系の寺院だったのかもしれない。
 しかし、現在の本尊は大日如来だから、修験との深い関わりを感じさせられる。

 山号にもなっている独鈷山は、山名もそうだが、山容もゴツゴツした岩におおわれて、いかにも修験道場らしい雰囲気を持つ。

 このような寺院が繁栄を極めるには、経済的なバックアップがなければならない。
 裏山に塩田城址がある。
 北条氏の時代から山城だったとは思えないが、村上氏の時代には、他と同じく、尾根上に砦が築かれていただろう。

 鎌倉時代には北条氏による庇護があっただろうし、室町時代から戦国時代にかけては、じつに信心深かった戦国領主たち(村上氏ついで武田信玄)に保護されたのだろう。

 鳥居をくぐるとすぐに、ケヤキの巨木がある。
 参道を少し行くともう一本の大ケヤキ。

 山門をくぐると、均整のとれた美しい三重塔が目に入る。
 室町時代の建立らしいが、これでも未完成だという。

 茅葺きの本堂も立派だ。
 奈良や京都の大寺は別として、地方の古い寺の多くは茅葺きだったはずで、列島民にとって、こんなお寺が、寺院の原風景なのではないかと思う。

富士浅間神社

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ちょっと可哀そうな大イチョウ
大ケヤキと本殿
シラカシ大木が多い
巨タブ
龍神

 朝から飯能市へ映画を見に出かけたが、前売り券完売とのことで、見ることができなかった。

 残念ではあったが、このような作品に注目が集まっていることは、喜ばしい。
 無為に秩父へ帰るのももったいないので、名栗谷に回って、富士浅間神社に寄り道した。

 富士浅間神社の裏山にタブの巨木がある。
 今日の最高気温は公称38.1度。ここ数日の関東内陸部はおそらく、列島で最も気温が高い。
 時期が時期だけに、暑苦しいのではないかと思ったが、森の中は不思議と涼しいのだった。

 まずは、本殿前にイチョウとケヤキの大木。
 イチョウは、どういう理由からか、剪定されて寸詰まりになっていた。

 本殿で拝礼して、裏山に登る。
 社号が富士浅間神社なのだから、裏山は富士山もしくは浅間山でなくてはならない。

 概ねスギの植林地だが、ところどころにシラカシの大木が点在する。
 タブの巨木も楽しみだが、ここのシラカシ林を見ることができただけでも十分、来た甲斐があった。

 ピークの直下で、タブへの道と山頂への道が分岐する。
 ピークは嫗(うば)ヶ岳というらしく、奥宮が鎮座していた。

 分岐に戻り、少し行くと、巨タブがあった。
 夏草の繁る時期だが、周囲は刈られていて、樹の全貌がよく見える。
 巨大な枝を広げた、凄い樹だった。

 近くに立てられていた説明板には、樹齢約700年とある。
 従って、芽生えたのは鎌倉時代ころということになる。
 植えられたのか、自生したのかはわからないが、伐られずに敬意を持って遇されてきたことは間違いなく、富士浅間神社のご神木という位置づけだったのだろう。

 しばし樹を見て、神社に戻った。
 よく見ると、拝殿のある位置も、巨大な丸石を積んで作られており、わきには、龍をかたどった石碑と、芙蓉の滝という湧き水が流れていた。

 映画を観ることはできなかったが、よいものを見ることができてよかった。

 帰宅後、しばし昼寝して、夕方はいつもの如く、大量の草むしり。

津金寺

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津金寺仁王
津金寺の巨杉
滋野氏の供養塔(鎌倉時代)
津金寺山門

 ジャガイモ掘りが終わったので、連日、草むしり。
 梅雨からお盆前にかけての時期は、どんなにむしっても、草の伸びるスピードが勝るので、畑は少しずつ草原化していく。

 日没までが勝負だから、できるだけ早く退勤して、今なら7時20分くらいまでひたすら草を取る。
 むしった草を埋めたり、空き地を管理機で耕して草が生えないようにする作業もやっているが、一日あたり、コンポスターにぎっしりくらいの草をとる。

 勝てない戦いを続けているうちに、草の勢いが次第に弱くなり、コオロギが出始める頃には、畑もいくらか、きれいになる。
 これを毎年、繰り返す。

 鉢伏山から帰宅する途中、立科村の津金寺を見学した。

 こちらは、行基が開基したという寺伝を持つ古刹である。
 行基伝説は数多いが、このお寺に由緒があることは明らかなので、なにも行基を持ち出さなくてもよさそうに思う。

 重要なのは、平安〜鎌倉時代に、信濃国小県郡・佐久郡あたりを支配した滋野一族に庇護されながら繁栄した寺であるという点だろう。
 滋野氏の実態はほとんど不明ながら、現在の長野県東部から上州吾妻郡一帯を束ねた豪族であったらしい。
 一族にはのちの真田氏につながる海野氏・祢津氏などがおり、江戸時代になっても、東信濃の支配権を実質的に維持している。

 寺は、「談義所」と呼ばれ、延暦寺同様に天台教義の研究施設としての役割を果たしていたらしい。
 したがって、そのパトロンたる滋野氏は、仏教の教義にも深い関心を持ち、資金提供を惜しまなかったことが想像され、この寺における教義研究の厚さが伺える。

 あまりじっくり見なかったのだが、境内をざっと拝観しただけでも、並々ならぬこのお寺の歴史的な重要さを、感じ取ることができる。
 要するに、「中央」とは無関係のところで、独自の地域的小王権が存在し、戦国の動乱期まで、独自の覇権を維持していたのである。

 上の写真は、山門に安置されている木造の金剛力士像。
 戸隠の九頭竜権現が刻んだという伝説のある、江戸時代の作品。
 力強い作品であるが、当初から未完の仏像だったらしい。

 二番目は、境内にある巨杉。
 延暦寺と同じ系統だというが、真偽のほどは不明。
 すばらしい杉であることは、間違いない。

 三番目は、滋野氏の供養塔。長野県宝である。
 建立されたのは鎌倉時代だが、そのように思えないほど、よく保存されている。
 滋野氏の歴史がもっと明らかになれば、この塔の価値がさらに明確になると思う。

 四番目は、津金寺山門の全景。
 ごらんの通り、茅葺の屋根を持つ。
 おそらくずっと以前からこの姿でここに建っていたのだろうから、それだけでも貴重な建造物だと言える。

旧横瀬村史跡

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御嶽神社里宮
札所八番のコミネカエデ
札所七番

 朝から秩父事件研究顕彰協議会のフィールドワーク。
 今日は旧横瀬村の事件関連史跡というか、事件参加者の旧宅や墓所を見学した。

 ルートは、こんな感じ

 終了後、畑で日没まで農作業。

 カイラン小苗の植えつけ。
 除草など。






金鑚大師山門

境内の籠店

金鑚神社拝殿

多宝塔

句碑の道

展望台(護摩壇あと)

展望台から筑波山が見える

テイカカズラの種子

これはひどすぎる

木村九蔵の頌徳碑

 ようやく、本格的な寒気がやってきた。
 今朝の公的最低気温が氷点下7.4度と出た。
 この温度は、秩父市内に設置された温度計の数字だから、山間部では、この数字よりずっと寒い。

 例年だと、これくらいが寒さの底となるのだが、最後の寒気が来るのは2月10日前後だから、これからまだまだ、この程度の寒さは覚悟しなければならない。
 週末の日本列島は、寒気にすっぽりと覆われるのだが、明日、業務山行を予定している。

 冬型になって風が強くなる日曜日より、雪が多少降っても、明日の方が穏やかだろうと判断した。
 判断の当否は明日になればわかることだ。

 金鑚御嶽山の参詣記を追加。

石仏1
石仏2

 本日で、昨年の休日勤務の代替休暇を使い切った。
 農作業は今ひとつ、はかどらなかったが、まずまず、いい骨休みになった。

 今日は、神川町の金鑚神社・金鑚大師にお参りに行った。

 近所の四阿屋山に元三大師の線刻があるが、金鑚大師は元三大師が住持したという伝説を持つ大きなお寺である。
 元三大師とは元比叡山の僧侶だし、金鑚神社には修験の痕跡が残っているから、いずれ何らかの山岳信仰とかかわりのある寺院・神社なのだと思う。

 もっとも神川町は、山岳地帯ではなく、秩父山地と関東平野との接点という位置にある上、もとは一体だったと思われる金鑚神社には八十八観音が安置されていて、現世利益的な様相が濃く、修行の地というイメージは薄い。

 初詣も一段落したかと思われるが、混雑してはいなかったものの、いずれにもそれなりに参拝客が来ていた。

 今日は、大師と神社の両方にお参りした後、神社の神体である裏山の御嶽山に登った。

 護摩壇あとの展望台からは、浅間隠から榛名山、小野子三山・子持山、赤城山、筑波山などを望むことができた。
 もっとも、赤城山には雪雲がかかっていて、全貌は見えなかった。

 写真は、八十八観音の一部。

松尾寺

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松尾寺 山門

 関西方面への小旅行から帰宅。

 今回はあまり移動できなかったので、出かけることができたのは、和泉市の松尾寺だけだった。
 できれば、葛城山から金剛山にかけての一帯をもっと歩いてみればよいのだが、高野・大峰・飛鳥・熊野という一帯の地理的感覚が、少しつかめてきた。

 記紀に基づいて語られる「日本」の古代史なるものが、じつはとても小さな「コップの中の嵐」に過ぎなかったという実感が得られたし、役の行者とは、複数の山岳修行・呪術者の行跡を集大成したキャラクターだったのではないかという感覚も得られた。

 ちっとも歴史学的ではなく、歴史ファン的妄想ではあるが、山伏の正体について、おぼろげながら、つかめてきそうな気がする。

 写真は松尾寺の山門。
 クス材を使っているとあり、ここを守護するのは仁王でなく、持国天と増長天である。

雲峰寺

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山門
本堂
エドヒガン巨木

 午前中ずっと、薪作り。
 カシとスギを切ったり割ったりした。
 小さな薪置き場も作ったので、仕事はずいぶん残っている。

 午後は秩父事件研究顕彰協議会の集まりに市内まで、出かけた。
 集まりが終わった後、畑まで戻ったら、管理機のオイル交換をしただけで、日が暮れた。

 奈良倉山に行った日は、雁坂まわりで帰宅した。
 大菩薩方面へ登るときに、裂石の雲峰寺の門前を通るのだが、立ち寄ったことがなかった。
 よい機会なので、宝物殿の拝観を兼ねて、お参りしてきた。

 茅葺きの本堂は、信玄の時代のものというし、宝物殿には、武田軍の陣頭に翻った風林火山の旗(孫子の旗)などが並べられていて、見ごたえがあった。
 本堂前には、エドヒガンザクラの巨木もあった。

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