身禄行者の墓

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食行身禄墓

 連休の中日は、ほぼ終日、都内にいた。

 畑に寄ってから、東京に出て、まずは駒込の海蔵寺に行った。
 ここには、食行身禄の墓がある。
 富士山の行者らしく、溶岩を積み重ねたミニ富士山の上に、墓石が建てられていた。
 山のまわりには係累の墓石のような石造物が、いくつも建てられていた。
 お彼岸とあって、境内は賑やかだった。

 その後、銀座で「瀬音の森」の黒沢和義さんの第3回 山里の記憶・原画展を見に行った。
 ご本人が「絵がだんだん上手になっているような気がする」とおっしゃっていたが、黒沢さんの筆に、何かが乗り移っているに違いないと思われるほど、心が入った作品ばかりだった。
 次の予定があったので、あまりゆっくりできず、失礼した。

 それから高田馬場に行って、安在邦夫先生のご退職を記念する集いに出席。
 30数年前、ちっとも勉強しない貧乏学生だったが、先生の教えのおかけで、教師としての道をどうにか外さずにここまで来ることができた。
 若かった時代を一緒に過ごした学友と楽しい時間を共にすることができた。

 写真は、身禄行者の墓。

コメント(6)

いつか話したことがあったかも知れませんが、安在先生は私の卒論指導の先生です。
不思議なもので、5年半ほど前に「瀬音の森」や渡部さんの「野遊び焚き火」などとほぼ同時に、このサイトの訪問者になっておりますが、色々な接点が不思議と多くあります。
私は、福祉の仕事へと進んだことのあり、当時学んだことがどれだけ生かされているかは分かりません。しかし、ゼミや卒論指導などを、大変懐かしく、昨日のように思い出しました。

たんぽぽ屋台 さん
 私は卒論は、近世史の深谷先生に指導していただきました。
 安在先生からは、古文書の読み方を一から習いました。まわりには、私のような苦学生が多かったし、いろんな理屈をこねるのが好きなうるさい学生もたくさんいました。
 授業をとってもいないのに、勉強を教えていただいて、勉強が終わったら、高田馬場で先生を囲んで、遅くまで、とりとめのない議論に興じていました。歴史探訪の小旅行などにまで、お付き合いいただいたものでした。
 学生時代は、人生の中で、最高に幸福な時代だったと思います。

「古文書」ああ、懐かしい響き・・・
確か私は深谷先生に古文書の事業を教わった記憶があります。
古文書の授業自体は地味で、苦痛だった印象がありますが、数百年前の時代に生きていた私たち祖先が、必要に駆られて残した生活や時事の記録に、とても心ひかれた記憶があります。
何となく学んで何となく卒業してしまった。今思うと、あれだけの先生に就いていたのだから、もっと貪欲に学んでおけばよかったなァと、今更ながら思います。

たんぽぽ屋台 さん
 「もっと貪欲に学んでおけばよかった」という思いは、誰しもあると思いますが、突き詰めて考えれば、その時間をそこで過ごすことができてよかった、ありがたいことだったという気がします。何が身についたのかはわかりませんが、その後の生き方を決定づける種のようなものが得られた学生時代でした。

吉瀬さん こんにちは
先日は遠いところ個展に来ていただいてありがとうございました。
吉瀬さんも書かれていますが、どうやら右腕に乗り移っている絵の神様は「おふくろ」のようです。
飲み屋で一緒になった先生に看破されました。
いろいろ考えてみたのですが、どうもその辺が正しいようです。
死んでからも息子のために頑張るなんて・・・母親というのは偉大なものです。
絵の神様がいてくれるうちに、秩父の全てを描き残したいものです。
さて、あと何年いてくれるか・・・

kurooさん
 なるほどと納得できました。まさにその通りだと思います。
 「山里の記憶」は、お母様のほほ同世代の方々を描いていますね。
 私がよく使う表現ですが、秩父という山襞に、誇りある人生を刻んでこられた方々が現役だったのは、1970年代頃までではなかったかと思います。
 日本列島の山里が輝いていた最後の時代を生きてこられた方々なのだと思います。

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