草花の植え替えと薪棚の手直し。
畑の道具小屋の手直し。
ほうれん草と人参の種まき。
いつもならトンネルをかけるのだが、高温予報が続くので、普通に直播。
写真は、大鳥屋山から望んだ男体山。
草花の植え替えと薪棚の手直し。
畑の道具小屋の手直し。
ほうれん草と人参の種まき。
いつもならトンネルをかけるのだが、高温予報が続くので、普通に直播。
写真は、大鳥屋山から望んだ男体山。
旧葛生町の大鳥屋山へ。ここに来たのは27年ぶり。
前回は不動岳から歩き始めたのだが、今思えば、とてつもないロングコースだ。
今回はその四分の一ほどにスケールダウンした周回コース。
ほとんどが植林で、展望は今ひとつだった。
柿平の節分草はほとんど咲いていなかった。
朝からムクゲ公園で山林作業。
まずまずよく働いた。
もらった薪を棚に積んでソーチェンを研いだら、もう夕暮れだ。
これで、薪2立米くらい。まだ積める。
「不当な平和許されぬ」か。林さん、やるじゃん。日本の政治家がこんな言葉を吐けるとは。
「もし、ある常任理事国があなたの国を侵略し、領土を奪った後で敵対行為を停止し、平和を呼びかけてきたとしたらどうだろうか」「私はこれを不当な平和と呼びたい。このような行為が許されるのであれば、それは侵略者の勝利となってしまう」
「ロシアとウクライナは話し合え」などと述べて、ウクライナ戦争の「落とし所」を探る動きが出てきた。歴史屋はアナロジーが好きなので、ごくまとめて、大日本帝国の満州侵略を振り返ってみる。
1931年9月に満州事変開始。きっかけは柳条湖事件で、関東軍による謀略だった。中華民国と日本は戦争状態に入ったが、日本はこれを「戦争」とは呼ばず、「事変」すなわち「戦争」ではない戦闘状態とした。満州地方を占領した日本は、旧清国最後の皇帝だった溥儀を天津から連れ出して執政の地位につけ、満洲国成立を宣言した。満州国の実権は関東軍に握られており、満州は事実上日本の植民地となった。
中華民国の提訴により国際連盟はリットン調査団を派遣して、柳条湖その他を調査した。調査団の調査結果は、日本に対しすこぶる妥協的なもので、満州における日本の権益も、傀儡政権の樹立も、日本軍の満州駐留さえも容認する内容だった。日本の侵略行動を非難つつも、欧米が実質的に容認したことに留意。にもかかわらず、1933年3月に日本は国際連盟を脱退。
1933年5月に塘沽停戦協定締結。中華民国と日本は停戦した。蒋介石は、満州国の存在を容認して、河北省の一部を放棄した。ここで蒋介石が侵略者日本に対し、容認的姿勢をとったことに留意。
1935年ごろ以降、中国・河北地方の満州国化を意図する華北分離工作開始。1935年11月、日本は河北省の一部に冀東防共自治政府を樹立。満州国同様の傀儡政権だった。中華民国内部に、日本との妥協をはかって事態を収めようとする「親日派」が発生するが、1936年12月の西安事件で蒋介石が国共合作に転換。これは同時に中華民国の対日非妥協路線への転換でもあった。大日本帝国の壊滅にとって、重要な転換点でもあった。
侵略行動を一部でも容認することは、次の侵略行動の布石となる。歴史がそれを教えている。
薪作り少々。
昨年割り残した難物を、少しずつ処理している。
チェンソーとマサカリで難物をこなすのは、そろそろ無理かも。
薪作りと並行して、鹿肉燻し。
鹿を食うのはだいたい、週に三回くらいとして、来月半ばには食べ尽くす計算になる。
畑の食べ物が少なくなってきたので、のらぼうのトウ立ちが待たれる。
写真は、東秩父村の大霊神社。
社殿は旧奉安殿を移築。奉安殿はコンクリート造りのはずだから、このヤシロの中に旧奉安殿があるのだろう。
隣には希典書の忠魂碑あり。
ここには、30数年ぶりに訪れた。
当時、役場で聞いたら、ここの忠魂碑は敗戦後、進駐軍に破壊されることを恐れて、地中に埋めて隠したそうだ。
独立後、碑を掘り出し、校庭の奉安殿を移転して神社化し、忠魂碑も再建したとのことだった。
東秩父村のリュウゴッパナからタカハタを周回。
植林が多くて、見るものは少なかった。
登山口近くの浄蓮寺は、このあたりにしては珍しい日蓮宗の大きなお寺で、見ごたえがあった。
ここには大築城を築いたとされる上田朝直の墓所がある。
写真は稲荷堂。
お寺の境内にあるお堂なのだが、稲荷の狛犬が祀られている。
終日、農作業。
春人参・ほうれん草予定地の耕うん。
大麦の土寄せ。
えんどう豆とそら豆に潅水。えんどう豆は寒さと乾きのためにずいぶん枯れてしまった。
薪作り少々。
写真は、ムクゲ公園の節分草。
自生地でもそろそろ咲いているだろうか。
コジュケイ初鳴き。
つがいの雉が庭を横切った。
人に見つかっていないと思っているのか、周囲を見回しつつ匍匐前進していたので、可笑しかった。
今日も半日、山林作業。
ずっと玉切りしていた。
山で薪をもらったので、帰宅後薪積み。
帰宅したのは13時過ぎだったが、薪を積んでチェンソーを研ぎ終わったら、16時を回っていた。
歴史学者がいう、労働力の再生産で精一杯の状況だ。
写真は、ムクゲ公園の秩父紅。
今がちょうどいい感じだ。
午前中、山林作業。
午後は、薪棚の屋根乗せ。
とりあえず、屋根は乗ったから、ある程度の薪なら収納できる。
知人宅でヒノキの玉をいただいた。
これも、農繁期になる前に割ってしまいたい。
ムクゲ公園では、福寿草がよく咲いていた。
今朝は氷点下5.4度まで下がった。
そろそろ寒さの底であってほしい。
薪作り少々。難物を着々と処理している。
ブロッコリーをビニールポットに種まき。
先日見つけそこなった上吉田の赤岩観音に行ってみた。
崩れ落ちるのは時間の問題のように見えるが、まだ建っていた。
大日如来の真下あたりだ。
ここまでは特に問題なく到達できたが、ここから稜線まで岩稜帯の高巻きで、冷や冷やものだった。
安全なところまで登ったとき、入山する前に虚空蔵菩薩に手を合わせておいてよかったと思ったのは事実だ。
薪棚の屋根を乗せ始めた。
あと半日くらいでできそうだ。
薪棚作りの続き。
骨組みは完成。
これから、屋根をのせる。
薪作り少々。難物ばかりなので、はかどらない。
写真は、女部田城址へのルートとして歩いた小沢。
このように両岸が切り立って、遡行できなくなる。
ここは、左岸を大きく高巻いた。
朝からお昼まで山林作業。
積雪が危惧されたが、さほどでなかった。
国道は、出かけるときには圧雪状態だったが、帰るころには溶けていたし、往路で大量の雪を積載していた軽トラは、午後には空荷になった。
帰宅後、薪棚作りの続き。
こんにゃく作りもそろそろ終わり。
昨秋のこんにゃくは不作だったので、量的にはちょうどよかった。
かなり降ってバスは折り返し運転になり、自宅下まで来なくなったが、走る気になれば走れる路面状態なので、陸の孤島ではない。
朝から雪掃き。疲れたので、今日の気温上昇に期待して、とりあえず終了。
上吉田の女部田から女部田城址と向山を歩いた。
女部田から大日の石仏があるところまで登り、女部田城址で大休止。
向山から合角ダムへ下山した。
基本的に道のないコースなのだが、合角ダムのコンクリート擁壁下りが最も困難だった。
女部田城はこぢんまりとまとまった砦。
日尾城は指呼の間にあり、土坂峠方面から上吉田への谷底道が丸見えで、いい場所に築かれている。
尾根から二条の堀切を構えるが、防御性はさほど高くない。
見張り場としては、たいへん好都合な要害だと思われた。
畑に寄って帰宅後、薪棚作りの続き。
半日、山林作業。
昨年新築した薪棚は、積んだ薪の崩壊に伴い、危険な状態になっていた。
たくさん積めない状態なので、解体と再建を同時に始めた。
これから頑張って再建したい。
ガマズミのリキュール。
酸味と渋みが鮮烈。
あと一年熟成させれば、琥珀色に結晶して味も丸くなる。
でも、空気なんぞ読まずにひたすら自己を主張するこの若さを、おれは好きだ。
今日も半日、山林作業。
公園のロウバイが一気に咲き始めたような気がする。
今朝は氷点下1.9度とずいぶん暖かかった。
春はまだ先だが、風の香りが変わってくると、野良に出たくなってくる。
写真は三増峠の馬頭尊。
小田原攻めの際に撃退された信玄は、三増峠を越えて相模川沿いに出て、甲府へ逃げ戻った。
北条氏にすれば、信玄の息の根を止める絶好のチャンスだったのだが、津久井城の内藤氏はなぜか・・・。
(氏照から津久井城主・内藤氏への伝令) 申し上げます。信玄めを三増峠へ追い上げたから挟み撃ちにする。直ちに出陣せよとの殿さまよりお言葉です。
(内藤) うん。大儀であった。氏照さまによろしくな。
(伝令) 直ちにご出陣を。
(内藤) うーん。考え中。
(伝令) 考え中って・・。信玄めは小田原に放火し、女や子どもをさらって逃げ帰るところですぞ。キャツの息の根を止めるチャンスは今しかござりません。
(内藤) だから考え中だって。
(伝令) そんなバカな。
(内藤) おれは動かん。守りを固めるのだ。城内には誰も入れるな。
(家来) あとで氏照さまに叱られますぞ。
(内藤) たわけ。氏照さまには謝っておけばよい。ここは信玄に貸しを作るのだ。我らの小さな国を守るには、あちこちの殿さまに貸しを作る以外にあるまいが。
ここ数日、家の近くでフクロウが鳴いている。
食物連鎖上位の生き物が健在なのはいいことだ。
山行録整理の後、薪作り少々。
登山の途中で、津久井の久保田酒造に立ち寄った。
前日に出荷し始めたばかりという純吟・相模灘(雄町)。
これは美酒。
生酒なので最初ピリッと来るが、全体のバランスがとてもよく、心地よい。
ザックが少々重くなったが、三増峠を歩いてよかった。
身体がなまっていたのか、激しい筋肉痛。
またも妄想登山。
旧津久井町の城山駐車場から志田山・三増峠と山中を行き、さらに城山に登ってきた。
城山と三増峠の距離感がつかめたのが収穫だった。
氷点下6.7度まで下がったので、水道がまた凍った。
出勤したのだが、仕事がないと言われたので、古城址めぐりに転向。
吉田町の竜ヶ谷城へ。
麓が別荘地になっているので、尾根の直下まで自動車で登れる。
南からの登城ルートは露岩帯で天然の要害になっていた。ここはことさら手を加えなくても、守備兵さえいれば防御性は高い。
岩を削ったらしき強固な空堀と竪堀を越えると主曲輪で、そこそこ広く、周囲は土塁を盛り上げて固めてあった。
とてもていねいな作りで、ここを守る武将の意気込みが伝わってくる。
その先も、空堀と曲輪・土塁が続き、堅固な山城という印象を持った。