アナロジー

| コメント(0)

 「ロシアとウクライナは話し合え」などと述べて、ウクライナ戦争の「落とし所」を探る動きが出てきた。歴史屋はアナロジーが好きなので、ごくまとめて、大日本帝国の満州侵略を振り返ってみる。

 1931年9月に満州事変開始。きっかけは柳条湖事件で、関東軍による謀略だった。中華民国と日本は戦争状態に入ったが、日本はこれを「戦争」とは呼ばず、「事変」すなわち「戦争」ではない戦闘状態とした。満州地方を占領した日本は、旧清国最後の皇帝だった溥儀を天津から連れ出して執政の地位につけ、満洲国成立を宣言した。満州国の実権は関東軍に握られており、満州は事実上日本の植民地となった。

 中華民国の提訴により国際連盟はリットン調査団を派遣して、柳条湖その他を調査した。調査団の調査結果は、日本に対しすこぶる妥協的なもので、満州における日本の権益も、傀儡政権の樹立も、日本軍の満州駐留さえも容認する内容だった。日本の侵略行動を非難つつも、欧米が実質的に容認したことに留意。にもかかわらず、1933年3月に日本は国際連盟を脱退。

 1933年5月に塘沽停戦協定締結。中華民国と日本は停戦した。蒋介石は、満州国の存在を容認して、河北省の一部を放棄した。ここで蒋介石が侵略者日本に対し、容認的姿勢をとったことに留意。

 1935年ごろ以降、中国・河北地方の満州国化を意図する華北分離工作開始。1935年11月、日本は河北省の一部に冀東防共自治政府を樹立。満州国同様の傀儡政権だった。中華民国内部に、日本との妥協をはかって事態を収めようとする「親日派」が発生するが、1936年12月の西安事件で蒋介石が国共合作に転換。これは同時に中華民国の対日非妥協路線への転換でもあった。大日本帝国の壊滅にとって、重要な転換点でもあった。

 侵略行動を一部でも容認することは、次の侵略行動の布石となる。歴史がそれを教えている。

コメントする

2023年2月

      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        

アーカイブ

カテゴリ